第21回 「生態人類学の鼓動、および原野の人トングウェ」

 すでに何度も触れてきたように、1960年代後半、餌付けの成功でチンパンジー研究が新段階に入ったことを感じた伊谷先生は、アフリカの自然に溶け込むように生きている人々に関心を向け、この流れがやがて生態人類学に発展します。そこで、このバーチャル展示では、このあとしばらく生態人類学を軸に話が展開することになります。(こうした研究活動の結果生まれた生態人類学会の公式サイトは https://ecoanth.main.jp/ です。ご関心がある方はぜひご覧下さい)

左からトングウェ(焼畑農耕)、トゥルカナ(牧畜)、ムブティとハッザ(狩猟採集)

 さて、第20回でも触れましたが、伊谷先生の生態人類学の“転進”に、周囲には戸惑う向きもありました。とくに、それまで切り拓いてきた霊長類学と、あらためて取りあげた生態人類学はどうつながるか? しかし、先生にとっては、それは必然とも言うべきものでした。

「私はよく、あなたの霊長類学と生態人類学はどうつながるのかと問われたが、人類社会の進化を論じようとするときに、この二つの領域は必須の分野であり、野生の霊長類と自然人はかけがいのない所与であると答えてきた。その両者を貫く理論が先にあってというのではなく、進化がそれを繋ぐはずだという直観への共鳴に応えてそういう意味で対象に魅せられて、これまでの歩みを続けてきたと言った方がよいように思う」(「人間平等起源論」350頁)

 その上で、1960年の『ゴリラとピグミーの森』でのバトゥワとバチガという二つの民族の生き方を見て以来の思いを、以下のように論じます。「都会生活者は除外して、アフリカの人々の生活はあきらかに二つの類型にわけて考えることができる。その一つは、まるでその自然の中の一つの要素であるかのようにして生活している人々、言葉を変えて言うならば、その生態系の中にすっぽりとはまり込んで生きているような人々である。人口密度がひじょうに低く、ありのままの自然環境を破壊あるいは変えることなしに生活してゆける人々である。むしろ彼らは、自然環境が変わっては困るのである」

人びとの二つの類型:自然にすっぽりはまり込むか(アカ・ピグミー)、まわりの自然を変えていくか(開拓者タイプ)(撮影市川)

「それに対して、もう一つの類型というのは開拓者で、彼らは自然に対抗し、自分たちの都合のよいように自然を変えてゆこうとする。この類型に属する人々が住んでいる地域は、一般に人口密度が高い。高い人口密度が自然の改変を要求したとも言えなくはないが、逆に彼らがそのような文化を持っていたからこそ、人口密度が高くなったのかもしれない」(「赤道アフリカの自然主義者たち」)。

 この点、チンパンジー調査で苦楽を共にしたトングウェたちは焼畑農耕民として、自然の中に溶け込むように分散して生活する人々であり、伊谷先生にとって最初に取り組むのにはまことにふさわしい対象でした。

1960〜70年代にサファリで出会ったトングウェの人々。なお、その後、タンザニア政府による集村政策でこうした伝統的生活は影を潜めます

「チンパンジーの行動や社会関係についての集中的な分析は若い人たちにまかせ、私は許された短期日の出張を効果的に使うロング・サファリに徹するようになった。若い人たちに広域調査の重要性を、身をもって説くこと、そして原野の自然人トングウェの生態を探ることが目的だった。自然に強く依存して生きる人々の生活が、人類社会形成史の復元にいかに重要かは自明であろう。人間を対象とする生態学というのは、人と自然の交わり、つまり生きざまの研究であった」「私はすでに長い年月をかけて、原野の人トングウェについての資料をため込んでいた。1971年、まさにそれを目的として、掛谷誠夫妻と同行することになった」(『サル・ヒト・アフリカ』73・77頁)

 それでは、トングウェとはどんな人たちか? 先生の指導のもと、先陣として調査に挑んだ掛谷さんはトングウェを以下のように紹介します。

「タンザニア西端部に、南北に長く横たわるタンガニイカ湖がある。その湖畔部から東部に広がるウッドランド(乾燥疎開林)がトングウェの居住区である。伝統的な山住みのトングウェは、山地林や川辺林等を焼畑の対象としていた。男たちは、乾季が進んだ7月になるとあらかじめ選定しておいた森に通い、山刀で蔓を切り払い、斧で木を切り倒す」

トングウェの生活1:左上から時計回りに、集落、焼畑、収穫したキャッサバ、キャッサバを搗いて製粉、土器作り、アブラヤシから採油、母子

「乾季も終わりに近づいた頃、人々はそこに火入れをして焼畑を造成する。雨季が始まると、女性は勾配の急な斜面を昇り降りしながら鍬で穴を掘り、トウモロコシとインゲンマメ、カボチャ等の種子を植え付ける。ほかに、マスキット銃や多種類の罠による狩猟、タンガニイカ湖や河川での漁撈、それに蜂蜜採集等の生業活動に従事している」

「集落は、せいぜい2〜10戸、人口にして5〜30人が住む小規模なものであり、それらの集落が互いに距離をへだてて広大な疎林帯の中に散在している。彼らの居住域はほぼ2万km2であり、そこの2万人たらずの人々が住んでいる」(掛谷誠「伝統的農耕民の生活構造」219–223頁を編集)

トングウェの生活2:左から少年とナマズ、地曳網、ハチの巣箱、弓矢、罠、マスケット銃

 ところで、広い疎開林に散在して暮らす彼らにとって、来訪者との付き合いは重要です。伊谷先生は自らも客人として幾多の集落を訪れた経験から、そのやりとりを印象的に記述します。「外来者(ムゲニ)が、「ホディ・ホディ(ごめん下さい)」と声をかけながら、突然集落の中に入ってきた時、集落の人々は、つとめて無表情で、いんぎんで、伏し目がちな態度をとる。客がイバンジャ(集会所)に落ち着いてしばらくして、男たちは静かに近づいてくる。これは、原野に住むトングウェたちに共通した態度なのであるが、それは外来者に対する作法であると同時に、孤立した集落を守るための最大の叡知なのであろうと私は思った。集落に入って来たのが何者であり、どういう目的でやってきたのかを冷静に見分けることが、おそらくはもっとも賢明な自己防衛の策であろう」(『チンパンジーの原野』22頁)。

(左)トングウェ・ランドでの集落の分布、(中央)トングウェの集落、(右)ブスングウェという集落の平面図(1971年7月3日)

 それでは、上記の集落平面図にでているブスングウェを訪れた時の先生のノートを紹介しましょう。数日前にミバンガという集落で調査することになった掛谷さんらと別れ、西田利貞さんとハルナ・フセニ、モハメディ・セイフ、カヘンブワ・ハミシらとさらにサファリを続け、イプンバ山(標高1996m)を登った後、ブスングウェに到着します。一見したところ、この原野で狩猟に依存した集落は、ふだんのトングウェの佇まいとはやや異なり、家が密集し、人も多く、先生たちは戸惑います。それでは、下に書き出してみましょう。

1971年7月3日、Busngweに到着

 左頁「(Luegele本流の)bonde(スワヒリ語で谷の意味)である。その下で谷一つ越し、Busali(以下、植物名のようです)、Mbanga、Sisenya(Protea sp.)、Kajibajiba(Phyllanthus sp.等)となり、このzoneを越すと、また(野火で)焼けたSisenya、Kajibajibaとなり、ゆるい谷を南下。5.17 Luegele本流越す。5.32 Luegele本流、水量多、急流、巾15m、ヤシの橋。
「5・36. 村に着く。Bsungwe。密集している。北西より入る。女たち、だまって静かに無表情に迎える。一息して、このTongweらしからぬ密集村は、異様なものを感じさせる。まるで山賊のすみかのようなものを」(:どうやら伊谷先生一行は最初、猟政官と疑われたらしく、住民は緊張していたのかもしれません)
 右頁「・あの地の名前はIkugaという。Migabo(精霊)が住んでいて、Kipwa(乾季)には水があるが、Mashika(雨季)になると水がなくなるのだという。
「この村、まったく異様なたたずまいだ。16棟が密集しており、まったくTongweの村らしからぬ様相を呈している。不*である点も異なる。女が10数人もいて、幼い子供が広場をうろうろし、ニワトリと白黒の犬とBuji(ヤギ)が一緒に歩きまわっている。密集のもつ異様さは、このcommunityが何かによって孤立し、あるいは何かによって結集している(精神的構造のあらわれではないのか)」

 この訪問を描いた『チンパンジーの原野』では、「私はいまだかつて、これほど狩猟に専念しているトングウェの集落を見たことがなかった」「しかしこれが、原野の奥のトングウェの本来の生き方なのだろうか。この部落では、5人の男が銃を持って野獣と相対していた。それに対してイグンガの人々は、荒野の一隅に作り上げた垣(ボーマ)の中の小さな世界に閉じこもって、サツマイモに依存して、生きていた。おそらくそのいずれかに徹することが、隔絶した原野の中での生き方なのだろう」と描写しています(同書32頁)。

 さて、突然の客(しかも、ひょっとしたら猟政官かもしれない)にも、トングウェの人たちは慇懃にふるまいます。

食事の歓待をうける

 左頁「(あと2人はIgungaの若者のtembeya(“訪問者/滞在者”)。
「この家の主人の一人らしい男。でもあいそよく迎える。この家のみは美しくきれいに壁を塗り、一段奥にあり(高いところ)。(戸に)鍵までついている。
「女は何度も水を運び、男はkuni(薪)を運ぶ。やがてugali(ウガリ;穀物粉を湯で練り上げた主食、この時はトウモロコシ)がでる。キントキマメのような赤いmahalage(maharage;スワヒリ語で、豆)、Nyaluanda(?)のbeg. 塩が足らぬ。
「女の中に3人ばかり、バセドーを見る(バセドウ病による甲状腺腫と思われます。内陸部でヨード不足かもしれません)。Delemaでも、Kasangojiでも、Ujambaでも」
 右頁「そしてLukandamilaでも、Ntandoでもバセドーの女を見てきた。そしてここでも見る。塩を足して食う。キャッサバには土壌が向かないよし。Mahindi(トウモロコシ)が主食とか。
「見ていると、女は家から家に出入りし、shis*le(頭に敷くクッション?)をアタマにのせ、水ガメをアタマにのせ、横目で私たちを見るが、つつましやかである。男たち5〜6人、ikonko(腰掛け)にこしかけている。家(私***の*****)は、今*壁を塗り直した」

 『チンパンジーの原野』では、「ここには、男5人、女が16人、子供が5人、全部で28人が住んでいるという」。やがて「湯を運んでくれたジュマの妻は湖岸のムジョンガ氏族の出身で、ハルナ・フセニの姪にあたることが分かった。遅まきながらジュマがハルナに柏手(かしわで)を打って挨拶をし、双方の緊張が解けてくる」(:トングウェ独特の挨拶の様式で、親族・姻族等の組合せでいくつかのタイプに分かれます。このケースでは、姻戚関係にある者同士ということで「ともに手をさしだして柏手を打ちあう」タイプだったかもしれません[『タンガニイカ湖畔』183頁])。いずれにしても、親族・姻族・知り合い関係で互いの関係が確認できれば、その場の緊張が一気に解けていきます。

 掛谷さんは、原野でのこうした社会的ネットワークが彼らにとって重要だと指摘します。掛谷さんがトングウェたちの農業生産を算定すると、興味深い事実がわかります。「私は各集落で焼畑耕地面積と、単位面積当たりの収穫量から生産量の推定を試みた。その結果、各集落での生産量は、住民が1年間に消費するであろう推定量ぎりぎり、あるいはそれを若干上回る程度であることがわかった。彼らは身近な環境内で、できるだけ少ない生計努力によって、安定した食物を確保しようとする傾向性を持っていると結論できる。つまり、彼らの生計経済の根底には「最小生計努力」の傾向性が潜んでいると考えられるのである」

 その一方で、「しかし、食物の消費については、より広い社会的ネットワークを前提に考える必要がある。原野の中に埋没して孤立しているかに見えるトングウェの集落だが、そこで暮らしてみると、実に多くの人々の往来があることに気づく。集落を訪れた客人は、食事の饗応を受け、宿舎を提供される。私も大いにその恩恵にあずかったのだが、原野の集落には、人々の往来を支える洗練された接客の文化が息づいている。しかし、各集落では、村人が年間に必要とするぎりぎりの量の作物しか生産していない。

「試みに乾季の3か月間、客人の記録をとると、客人が食べた食物量は全食物量の40%にも達していたのである。一方で、集落の住民も旅に出て、他集落で食事を得ている。客人と集落の住民の出入りはうまくバランスがとれており、食物の供給量もそれによって調整されていることになる」(掛谷誠「伝統的農耕民の生活構造」228-230頁を一部編集)

 伊谷先生は翌朝、ブスングウェから次の目的地イグンガに向かう時、案内してくれた長老ハマニに「またきっともどって来ますよ。お元気で」と声をかけ、「ここの狩猟生活には関心があって、若い研究者を1人投入したいと考えて、こう言ったのだが、これが最後になってしまった」と結びます。

 それでは、伊谷先生が、サファリを繰り返していた頃に出会った人々との交流の記録も少し紹介しましょう。下のノートは、1966年9月25日、サファリで泊まった集落での女性との会話です。

女性との会話

「やがて雨やむ。起きて、昨日のkukoga(入浴)の水をsaidia(助けて=汲んで)くれた女のところにゆき、湯を沸かす。熱いコーヒーを飲む。
「あなたは今日もうゆくのか。3日も4日も、もっとこのMasabaに泊まってゆくと良い」と女は言う。Tongweの女は、とくに山の中のTongweの女は快活で非常に明るい。この女もそうだった。しかし、何かある悲しみか、あるいはあきらめか、そういったものを通り越した明るさだった。これはアフリカ人には珍しいことだ。底抜けの明るさとそれに対応した現実性。それ以外のものに出会ったような、そういう気がした。
「昨晩のカレーの残りをRamadhaniに炊かせながら聞いてみた。「子供はどこにいるのだ?」女は目を落とし、「Hakuna(いない)」と言った。アフリカにおいて、女にとって、子供がないということが、いったいどういうことか、きっとこの女はどこかに嫁ぎ、そして子供がないために離婚し、実家の村に戻ってきたのであろう。そういったことが、アフリカにとっては珍しい、こういうpersonalityを作り上げたのだろう。
「昨夜からの水汲みのお礼に、Zin(ジン)の空ビンを与えると、非常に喜んだ。Isaの言うMari ya Tanzania(タンザニアの財産)は本当だ。山の中で、一本の空ビンは(いかに貴重なものか)」

 これらの集落にはまた、豊かな精神世界が息づいていました。下は伊谷コレクションから、集落での祭祀物や歌と踊りの画像を選んだものです。まず、左端の画像は、集落の入口の木にすえられたヒョウの頭蓋骨で、これはムワミ(首長)が住む集落であることを示しています。その右は家の周りに点在する精霊のための祭事物。そして女性たちの踊りと男性がたたく太鼓。トングウェの狩猟儀礼で歌われるブジェゲの一節ですが、「カミニュラムシラ、カバカニェレ」というトングウェ語の歌詞は、「原野に行ったなら、獣のようになって帰ってくる」という意味です。

祭祀物、踊り、そして歌

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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