第24回 「イトゥリへの道;もう一つの自然人ピグミー」

 伊谷先生が、トングウェとほぼ平行するように取り組んだのが、“イトゥリの森”に住む狩猟採集民ムブティ・ピグミーの人たちです。「私は1972年、私は原子(令三)君、武田淳君をともなってカソゲ基地を訪れ、そのあと皆でルグフ盆地の横断とルグフ上流域の遡行に成功した。武田君は盆地北辺のイセンガの集落に住み込むことになり、私は原子君とともに汽船で(タンガニイカ)湖を渡ってザイール(現コンゴ民主共和国)のイトゥリの森に入った。

「いつも、言葉でもなく歌でもない声がどこからともなくもれてくる緑の館の中でのムブティ・ピグミーとの生活は、私の長いアフリカの旅のなかで最も平和な、心安まるひとときだった。私は完全な自由というものを、何の規制も受けていない自己を意識した。しかし小さな人びとは、私が椅子に座り足を組んでノートをとっていると、笑いながらそっと寄ってきてたしなめたものだった。森で足を組むのはンバ、禁忌なのですよと」(『サル・ヒト・アフリカ』78-79頁)

 なお、以下の記述には、個人情報保護の観点から、個人等が特定されないよう、固有名等を一部伏字にして青字であらわすなど、元の文章を一部改変している箇所があります。また、写真は1970年代に撮影されたものであり、その後、この地域に住む人たちの生活には大きな変化が訪れていることをご承知おき下さい。

左はハンティング・キャンプの景観(『チンパンジーの原野』185頁)。他は伊谷コレクションから、この旅に関係した画像をピックアップ

 このピグミー研究の先兵役を担ったのが当時、自然人類学研究室助手だった原子令三さんです。伊谷先生は彼との出会いについて「東京の小さな飲み屋で、はじめて原子君に会った。彼は当時、東京大学で人類学を専攻する大学院生だった。私は、かつて飛行機の上から見たコンゴ・ベーズンの果てしない森林のひろがりのことを語った。原子君は、ピグミーに関心をもち、シュベスタ*や、グジンデ**や、パットナム***や、ターンブル****のものなどを読んで、ピグミーの生態人類学的な調査をやりたいと言っていた。酒の勢いもあって、よし、二人でコンゴ・ベーズンを歩いて横断しようと気勢をあげたのをおぼえている」と回顧しています(『チンパンジーの原野』160-161頁)。つまり、この旅はかつて二人が飲み屋で語り合った夢の実現への道行であり、同時に、先生にとっては『ゴリラとピグミーの森』でのロード・ムービー的展開の再現だったかもしれません。
*:Paul Joachim Schebesta(1887-1967)、神父としてモザンビーク等で宣教しながら、民族学を学び、1929〜54年に4回にわたってピグミーを研究。**:Martin Gusinde (1886-1969)、オーストリアの司祭・民族学者、1930年代半ばにピグミーを研究。***:Patrick Putnam (1904-1953)、アメリカの人類学者。****:Colin Turnbull (1924-1994)、英国系アメリカ人の人類学者、ピグミーを描いた『森の民』と、ウガンダの民族イクを扱った『山の民』で知られています。

左は、伊谷先生による原子さんのスケッチ(『森と砂漠と海の人びと』から)。右の写真には、原子さんの調査後に、イトゥリに入った丹野正さんが写っています(1973年)

 この時、二人がムブティ・ピグミーのフィールドを求めて、カソゲからの行程は下記の図の通りです。なお二人の道中は、10月28日に伊谷先生がトラックに便乗して西に向かうことで終わり、先生はキサンガニを経由して首都キンシャサへ、さらに調査許可を求めてブカブに飛びます。原子さんは逆に東に向かい、フィールドを探りながら、荷物を預けたモン・ホヨのホテルで調査許可についての先生からの連絡を待つ、という段取りになりました。

左:カソゲからイトウリまでの行程。右は上から、ゴマからベニまで利用したと思われる軽飛行機、モン・ホヨのホテル(と思われる建物)、そして森林景観(伊谷コレクション「Ituri Forest 1972」からピックアップ)

 それでは、この旅を記録したノートの内容を一部、紹介しましょう。

モン・ホヨのホテルから移動中にであったピグミーが携えていた弓矢

 10月23日の朝、モン・ホヨのホテルに荷物を預けた二人は、軽装になってバスが通るコマンダまで歩くうちに、ピグミーに会います。その際に弓矢をスケッチしたのが上の頁です。「絃にDuluを用いる。その一端にMakaku(サルの意味かと思われます)のMukia(尾?)を通している。矢にはApivoの木を用いる。矢じりのつけ根はShiombuのツルで巻いている。羽根の代わりにBamboの葉を付けている。絃にはさらに細いDuluで補強してある」

バスを待つ間

 次は、コマンダで長距離バスを待ちます。「朝から、ファンタがないというので、プリムスをのむ。近くの市には地酒のみ。レストラント1軒あり。ワリ・ナ・ニャマ(ご飯と肉料理)はあるという。タマゴのみ求めて、車を待つ。今日は週1回の、BuniaとKisangani間のビス(Bus)Broxelleが来るという。小屋の中で座ったまま、酔いがまわり、うとうとする。ついに12:10 a.m.バス来る。大きなバスだ。Broxelleと書いてある。朝Buniaを発ち、翌日の夕方まで700km以上走ってKisanganiにつく。12:15 a.m. dep.(出発)。客はほぼ満員、しかし、車が大きく、ゆったりしている。車の中は例によって賑やか」

バスと沿道の風景


乗車直後の車内の情景

「男、女、子供、老人、そして私たちの横には兵隊がいる。MambasaのComanda(司令官)とかで、Oma***(カソゲでの雇人)を思わせる好人物。一番前の席にすばらしい美人がいた。Tropical Congo Bamtuの美人。Black Beautyの名にふさわしい漆金の美しさをたたえている。車は下り、一気にR. Ituri(イトゥリ川)に達する。川巾広い。カヌーどころか、しぶきをあげ、渦を巻いて流れている。しかし、Komandaからわずか13分(12:28)。この川がまさにforestとopen landの境だ。Mt. Lumbuはその向こうにある」

バスはさらに、後で原子さんがフィールドとして選ぶロルワを通ります

「彼ら(ピグミー)は片手に弓を持ち、女はhead band式のkitunga(籠)を背負って、道を歩いていた。私はそのpopulationのあまりもの高さに驚く。Bantu(バントゥー農耕民)の村があれば、必ずと言ってよいほどBambuti(ピグミー)の姿があり、Bantuの集落の裏には必ずと言ってよいほどにBambutiの村があった。ある村落は空家になっていた。こうして主食を(農耕民に)依存した生活をしながらも、彼ら(ピグミー)は離合集散を繰り返し、依存すべき村を変え、散らばり、一緒になりしているにちがいない。1:23 Loluwaという村に着く。その前がとくにBambutiの村が多かった」。(:『チンパンジーの原野』173頁では、「それは、農耕民と森の狩猟民との間の緊密な共生(シムビオシス)を物語る図であった」と記されています)

農耕民の村と狩猟採集民の小屋

 さて、原子さんの調査(1972年12月〜73年7月)に始まったピグミー研究は、丹野正さんや市川光雄さんらによって継続され、多くの知見が得られます。以下は、原子さんの後、マンバサから46km南の一帯でおこなわれた丹野正さんの調査(1973年8月〜74年2月)から、成果のいくつかを紹介しましょう。まず、ピグミーとはどんな人たちなのか?

「(アフリカの赤道付近の)大森林地帯のあちらこちらに、ピグミー系の人々が互いに遠く分断された形で分布している。(略)「イトゥリの森」に住むムブティは、身長が著しく低く(成年男子の平均は約144cm)、皮膚の色が比較的薄く、大きな頭と丸い目と大きく広がった鼻をもち、上肢に比して下肢が相対的に短くきゃしゃである点で、もっとも典型的なピグミーの集団である」(丹野、1986「ムブティ・ピグミーの生活と物質文化」72頁)。

「4万人ほどの人口を擁するが、彼らが日常的に行なう狩猟方法の相違によって、弓矢猟を主とするアーチャーと、網猟を行うネット・ハンターの二集団に区分することができる」「5、6家族から20数家族よりなる居住集団をつくって生活している。遊動生活を営む狩猟採集民の居住を共にする集団を、一般にバンドと呼ぶ」「それぞれのバンドのテリトリーには、5〜7カ所のハンティング・キャンプがあり、彼らはこれらのキャンプと(農耕民の集落近くに設けた)ベース・キャンプの間を移動しながら生活する」(同74-76頁)

 下の図は、そうしたハンティング・キャンプの一つです。

キャンプの平面図(丹野、1977、「ムブティ族ネット・ハンターの狩猟活動とバンドの構成」104頁)

 さらに下の図は、“Mバンド”と名付けられたこのキャンプの構成メンバーの親族関係を示します。この図から、①彼らの多くが一夫一妻であること、また、②既婚男性の大半は三世代前に遡る父方の系譜で結ばれていることがわかります。この系譜でむすばれた人たちは“Bap***”と呼ばれ、“Ambai”というサンショウウオ、あるいはイモリの一種をトーテム動物(“Inginiso”)にしているとのことです。

バンドのメンバーの血縁関係(伊谷、1977『チンパンジーの原野』204頁;原データは丹野、1977、103頁の図から)

 このバンドでは、網猟(ネット・ハンティング)を主な生業とします。これは「集団による狩猟であり、男だけでなく、女も勢子と獲物の運搬という必須の役割を担って参加する。

「網の材料はクーサと呼ばれるトウダイグサ科の木性蔓(Manniophyton fulvum)の靭皮繊維で、この繊維を撚り合わせて紐にし、その紐を編んで網を作る。網の高さは約1.2mで、一人の男が操作する網の長さは約40〜100mである。

「男たちはこの網をいくつも連結して、森の中の一角をほぼ円形に取り囲み、彼らはその内側で、各自の網のほぼ中央に立って獲物を待ち受ける(下図)。女たちは囲いの開口部に並び、そこから獲物を網の方へ向かって追い込んでいく。

「1日の網猟に費やされる時間は平均7〜8時間で、その間に平均7回の網猟が繰り返される」(丹野、1986「ムブティ・ピグミーの生活と物質文化」77-78、85頁)。下に網猟の模式図を示します。

網猟の模式図(丹野、1977、77頁)

 獲物の多くはダイカーと総称される小中型の有蹄類で、キャンプに持ちかえられるとただちに男たちによって解体されます。獲物の処理には一定の様式があり、いくつかの部位に分けられます(下図)。

中型ダイカーの解体様式(丹野、1977、113頁)

 その際、①建前として、獲物は網を操作して捕まえた者の所有ではなく、網の所有者のものとなる。②すべてのダイカーの頭部は、当日先発して“Kungya(最初に網を張る場所での焚火)”を焚いた者の所有になる(そして、最終的には男たち全員が一緒に食べる)。③腹・腰・尾部はその日獲物がなかった家族に分配される。④心臓・肝臓・肺等は男の食べ物で、胃より後方の内臓は女と子供の食べ物とされる等のいくつかのルールによって、獲物はキャンプ内に広く“分配”されていきます(丹野、1977、113-117頁)。のちに伊谷先生は、これらの報告をもとに“人間平等起原論”を展開することになります。

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫
2025/12/22


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