第26回 「牧畜民トゥルカナ1:村入り」

 1970年代、伊谷先生は新たな研究対象に、北ケニアの半砂漠地帯で生活する牧畜民トゥルカナを選びます。カラモジョンの硬く、不気味なマスクに魅かれてから18年後、再び遊牧民と向かいあうこととなります。

「(1978年)私はトゥルカナを選び、太田至君とともにトゥルカナの奥深くに入った。(略)それ以後十年余の私の研究の中心は、トゥルカナに絞られている。私はあの「仮借なき人びと」に惚れてしまったのだろう。1980年の未曽有の旱魃の最中に、私たちはトゥルカナと共に無慈悲な天を仰いですごした。(略)極限的な自然環境が磨きあげたクォーツのようなトゥルカナの人格は、一時期の私にとって、アフリカの象徴点であった」(『サル・ヒト・アフリカ』80頁)

左図で青い線で囲んであるのがトゥルカナ・ランド(『トゥルカナの自然誌』11頁)。色付けしたマリレ、トポサ、ドドス等は周辺の諸民族。右は家畜に焼印を押すトゥルカナの男性

 それでは、トゥルカナとはどんな人々か? パラ・ナイル系のテソ・グループに属する民族で、トゥルカナ湖を除くTurkana County(トゥルカナ郡)は68,232.9km²、2019年の人口は925,976人で、人口密度は13.6人/km²(https://countytrak.infotrakresearch.com/turkana-county/)。年間降水量200〜400mmという過酷な環境で生きるため、彼らはヒトには消化できない草・葉を家畜(ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジ)に食べさせ、その家畜から食用にミルクと血を採取します(このほか、駄獣としてロバを飼育)。その代わりに、家畜を保護・管理することで「共生」を実現する=ケニアの牧畜民に共通するスタイルです。

 その彼らの価値観の中心を占めるのがウシです。

当時の写真(伊谷コレクションおよび太田至撮影)

「トゥルカナは、一口で言うならば牛に魅せられた人びとなのである。彼らにとって、角をもたない駱駝は、富の象徴ではあっても、彼らの精神の象徴にはならなかった。(略)彼らは、愛する牛に自らをアイデンティファイする。私は、彼らが家畜を歌った歌を採集し、その数は60に達したが、そのうち50までが牛の歌だった」「彼らは、自分の牛の角を、自らの好みの形に矯める。両角で見事な円形にかたどるアコドス、鬼の(角の)ようにまっすぐ上に伸びたロイタ、両側に弧を描きながら垂れ下がったロルク。(略)それはまさにトゥルカナたちの牛への愛情の表れで」あった。(『サル・ヒト・アフリカ』151頁)

 それにしても、「どうしてもトゥルカナでなければならなかったという理由があったわけではない」とする伊谷先生ですが、あえて“極限的な対象”を選んだという先生の志向がもたらした出会いは、事前の予想をはるかに超える展開になります。それこそがフィールドワーカーとして何にも代えがたい醍醐味と言えるでしょう。

トゥルカナの家畜たち(左上隅が、角を矯められた牛の写真。その右がアウイの中の家畜囲い[朝で、まだ放牧前]、ほかラクダやヤギ・ヒツジの小家畜、右下隅は駄獣のロバ)(伊谷コレクションおよび太田至撮影)

 さて、1978年7月20日、伊谷先生と太田至(当時、大学院生)は、別の牧畜民ポコットを調査予定の田中二郎・丹野正さんらとナイロビを出発、途中で田中さんらと別れ、ロドワの町につきます。その印象は「どこか西部劇に出てくる町のような雰囲気がある。この町を中心に、約1万5千人が住んでいるというが、それも確かな数ではあるまい」(『トゥルカナの自然誌』36頁)。

 そして、7月25日、朝9:40にランドロヴァーでロドワを出発、14:15にカクマに着きます。カトリック・ミッションに寄って神父へのワインの贈り物をシスターに預けた後、20日前におこなった予察の際に目をつけ、そこに落ち着こうと心に決めたアウイ(集落)を探すのですが、なかなか見つかりません。下はその時のノートからの抜粋です。赤い点線で囲まれた箇所を文字起こしします。

1978年7月25日の“村入り”でめざすアウイを探して迷っている様

「(道路から)まっすぐ(疎林に)入る。Bw、Eketoi Eoi(20日前に聞いた青年の名前=実は偽名*)、ノートにあるこの名を求めて、各マニャッタ**を聞いてまわる。誰も知らぬ。何度も行ったり来たり、ついに完全に手をあげる。あの、私たちが原野の中で出会った女はキツネだったのか。あるいは、あのマニャッタは、どこかに移ってしまったのか、そんなことまで考える。車をすて、この間の(タラッチ川の)河辺の道を歩き、また右岸に登って歩いてみるが、見あたらぬ」
*:20日前の予察で若い男性から、自分のアウイがある土地は「エコソニ」、男性の名前は「エケトイ・エウォイ」と聞いていたのですが、実は、どちらも“偽名”で、「エコソニ」は探しているアウイの長老ラポーの第一夫人の名前であるとともに、周囲に生えている灌木の名前。「エケトイ」は植物の総称、「エウォイ」はアカシアの木をさすことが後で判明します。**:マニャッタ[manyatta]は伝統的居住地を指すスワヒリ語で、トゥルカナ語ではアウイが該当します)

 そこにスワヒリ語を話せる男性が案内を申し出て、ようやく目的のアウイにたどり着きますが、その後のやりとりが以下に続きます。

ようやく目的のアウイにたどり着く

「案内の男に10シリングを支払う。その男(が)何かを言うがわからず、とにかくテントの位置を決める。長老の細君がその場所を定めてくれる。Manyattaの正面入り口の、boma(柵)にそったすぐ左側だ。(:長老ラポーと第一夫人エコソニと思われますが、もちろんその時は名前もわかりません)

「荷物をおろしはじめると、10何人がみな喜々として手伝い、荷物を運んでくれる。ぐったり疲れ果てたが、何とか設営、長老の細君にひとにぎりのTaba(エタバ、噛み煙草)と、砂糖と紅茶の粉を手渡す。先日、道で出会った女が帰ってくる。Eoiは北の山に放牧に行っているという。トーチで米をより(えり分け)、玉ネギとジャガイモをむき、カレーをたく」。こうして村入りの日が暮れようとします。(:まだ、エウォイが偽名であることに気づいていません)

長老ラポーとロッカウオのアウイの平面図、および柵・門、小屋の写真:アウイの中では、成年の女性は一人ずつ、昼の小屋と夜の小屋を持ちます。また、家畜は種・年齢段階ごとに家畜囲いの中に収容されます(伊谷コレクション)

 それにしても、言葉が通じなくてはどうしようもありません。7月26日、カトリック・ミッションのレオ神父の口利きで、アミスという青年を雇うことになります。そして、やらなければならないことを書き付けたのが下のノートです。(:日付は7月27日とあるのですが、26日の間違いのようです)

1978年7月26日のノート

「明日からは、言葉の問題はひとまずアルバイトが手助けしてくれるが、やはりこっちで覚える必要がある。①まず言語、そして②家族構成と血縁関係、③家畜、④家の構造、⑤植物、⑥鳥、⑦労働、⑧遊牧。そしてそれらの中から出てきたSymbolismの問題、Cognitionの問題、あまりにinformationが多いが、徐々におぼえながら、自分のものをだしてゆくこと。⑨Color(色)の問題、⑩アクセサリーの記載、⑪マテリアル・カルチュア、(次頁には「⑫薬、やるべきことは非常に多い。私がいる間にアウトラインをつかみ、そしてそのextensionを調べること。太田はできればウシ放牧をやらせたい」と続きます)」(:Berlin & Kay[1969]での基本色名[Basic Color Terms]の議論等に触発されたのかもしれません)

 そして、次の27日、アミスの通訳によって、アウイの人たち、なかんずく長老ラポーとの意志の疎通が可能になったやりとりを、下のノートで見ましょう。

7月27日、通訳が来て、やっと対話が可能になる

「Campで、フライ(シート)でアミスのテントを張る。よく気がつき、よく働き、非常にcleverだ。このずっと南で生まれたという。
 Rapooが来る。アミスに挨拶させる。ここで初めて、私たちとRapooたちとの間に話しが通ずる。
 Rapooは言う。「これまで言葉が通じないので、彼ら(伊谷先生たち)はいったい私たちの友人なのか、それとも私たちのヤギを殺しに来たのか、わからなかった」という。  私は来意を告げ、このManyattaの一員にして欲しい、と言う。Rapoo(は)喜んで承知してくれる。Mpuguwaもにこやかに(うなづく)」(:この名前の女性は下記の26日付けのノートでは“えらいおばさん”と記載されていますが、後で実名がエソコニと判明します)

 このラポーの発言について、伊谷先生は『トゥルカナの自然誌』では「これは私たちがまるで予期していなかった発言だった。この警戒心*の故に、彼らはいいかげんな人名や地名を私たちに教えたのだろうか。また彼らは通常の人間関係において、このような緊張を必要としているのであろうか。私はラポーに、改めてはっきりと私たちの来意を告げた。私たちは、あなたたちがどのようにして山羊や羊を飼い、この原野の植物をどのように利用し、鳥やけものにどのような名前をつけているのか、そういったことを学びたいと思ってここにやってきた。あなたたちみんなと、仲よく生活してゆきたい。どうか私たちを、あなたのアウイの一員に加えていただきたい。ラポーもラポーの第一夫人も、それを快く承知してくれた」と振り返っています(52-53頁)。
:隣接する諸民族を総じて敵[エモイト]と見なすトゥルカナたちにとって、略奪[レイディング]は日常です。カクマのシスターから、「つい最近、ポコットの略奪隊[レイダー]がここから7マイルのところまで来ました。牛は全部取り返し、ポコットは殺されたそうですが」とこともなげに告げられていますが、外部から来た人間をまず警戒するのは当然かもしれません)

 なお、翌28日午後のノートには、「(太田から)これまで連中から聞いた人名はほとんど出鱈目らしいですよという注進が入った。彼らの態度を見ていると、一向に悪意のようなものは感じられないのだが、どうやらみんなで申し合わせて嘘をついていたらしい」。「エウォイ(の実名)はルぺイヨックだったし、妻のアコロはアペイヨノニで、こともあろうにアコロとは“腹が減った”という意だった。片目の男はロベニョといったが、本当はロッカウオだった」。「わずか2、3日のこととはいえ、私のフィールド・ノートも私の頭の中も大混乱に陥っていた。しかし、あせることはあるまい」(同56頁)

:1978年7月26日付けの名前の聞き取り記録です。これらの名前は下記の血縁関係図に該当がないため、この段階で聞き取られた名前はほとんどが偽名のようです。『トゥルカナの自然誌等』での記述と照合し、本名が判断できた3例について、赤字で本名を記載しておきました。

 28日のノートには続けて、「人名ずいぶんまちがっていた。“Rochompa”3人の少年の中で同じようだが一番大きい子。いつもにこやかに笑っている。Rapooの一番下の息子だという。Ewoiの兄弟の中の末弟だという。(略)“Namutan”Ewoiの妻。いままでAkoroと思っていたがなんとこれは“腹が減った”ということであった。(略)」と書かれています。

 どうやらこの段階でもまだ、エウォイが偽名とわからなかったようです。“ナムタン”も最終的にはアペイヨノニと判明します。また、下記の血縁関係図では、ロッチョンパはロッカウオの息子で、“Ewoi”の兄弟ではありません。

 このように、名前や血縁関係はさらに修正が続くのですが、丹念な調査で判明した血縁・婚姻関係図を下に示します。この図で赤い点線で囲ったのが、ラポーとロッカウオの拡大家族と、ナモゴカンという老婦の子・孫たちです。彼らは一夫多妻が基本で、また、既婚男性が死んだ場合は兄弟が残された妻を相続します(人類学でいうところのレビレート婚)。この図ではラポーの第3・4夫人(イカマイスとロッカウイ)が該当します。また、エソコニは子供に恵まれず、7人の養子を迎えていました(下図では紫色の点線で囲んだ箇所)。なお、この図では、アウイを離れて暮らしているものの名前は省略されています。

ラポーとロッカウオのアウイのメンバーの血縁・婚姻関係

 この図でわかるように、このアウイはラポーとロッカウオという長老男性を中心とした二つの拡大家族に加えて、遠縁にあたるナモゴカンという老婦の子供・孫たちからなりたっていました。また、ラポーとロッカウオの母親は姉妹なので、従兄弟の間柄にあたります。

 加えて、ラポーの第1夫人(エソコニ)の父親と、ロッカウオが母のキョウダイから相続した妻(イウタイ)の父親はキョウダイです。つまり、血縁と婚姻が重なり合った人びとが、ひとつの集落を作っていたのです。いずれにしても、こうして伊谷先生たちの村入りの幕が上がります。

(以下、次号)

編集・執筆:太田至・高畑由起夫
2026/1/22


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