伊谷純一郎 アルバム2

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左上 1958年2月。財団法人日本モンキーセンター第一次アフリカ類人猿調査隊に。今西先生と伊谷が派遣された。外貨の入手すら困難な時代であった。目的は、赤道アフリカにて、野生ゴリラの予察調査、海外の霊長類の研究者に会うこと、研究施設を訪ねること、将来犬山に設立を予定している世界の霊長類動物園建設に向けての資料収集。行く先は、ケニア、タンガニイカ、ウガンダ、ブルンディ、ルワンダ、ベルギー領コンゴ、コンゴ、カメルーン、そしてフランス、スイス、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、アメリカだった。期間は1958年2月より7月までの5ヶ月余。渋沢敬三会長、田村剛理事長、土川元夫、宮地伝三郎常務理事らの御援助があってはじめて実現した。この写真は、夕方羽田を発ち、翌朝バンコックの地を踏んだときのものであろう。インド航空のスーパーコンステレーション機、ゼット以前の4発プロペラ機だった。

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左中 ナイロビに着いて最初に計画したのが、当時世界的に著名な動物商カ−・ハートレー氏のファームを、ナイロビの北ルムルチに訪ねることだった。車をハイヤーして、ルムルチへ。帰りはニエリの山間のホテルに泊まった。右、今西先生。当時ナイロビにもヘルメット帽をかぶっている人は稀だった。その左がカ−・ハートレー氏。そしてその家族、左端はドライヴァーのスミス氏。もとより、当時のコリンドン・メモリアル・ミュージアム(現在の国立ケニア博物館)の館長のL.S.B.リーキー博士らにも会っているが、そのときの写真はない。

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左下 ナイロビからタンガニイカのアルーシャにバスでゆき、メルー山(4,800m)の日帰り登山を(2字不明)た。この写真はスライドにある。ナイロビからウガンダのエンテベに飛び、カンパラで準備をととのえ、若い作家藤島秦輔氏を加えて、彼のドライヴで西南ウガンダ、キゲジ州のキソロに向かった。この写真は、ゴリラの棲息地のすぐ北の小さな町キソロにあるトラヴェラーズ・インの前で、この宿の主人ドイツ人のW.バウムガルテル氏と今西先生が談笑しているところ。私たちはこの宿に泊まり、南のムハブラ山、ムガヒンガ山の山麓までゴリラの日帰り調査に出かけ、第一日に母子のゴリラに出会い、大きなオスの咆哮をあびせられた。この間、ムハブラ山頂(4,300m)に登頂している。

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右上 ブフンビラ死火山群の遠望。この全体にマウンテンゴリラが棲息している。左より、山群東端のムハブラ山、つぎの平たいのがムガヒンガ山(山頂にクレーターがある)。つぎの平たいのがヴィリケ、三角形をしたのが最高峰のカリシムビ山、右端がミケノ山。

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右中 海抜約2,000mに至ると、バラ科の喬木ハゲニア・アビシニカ(Hagenia abyssinica)が出てくる。植物の垂直分布は面白い。

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右下 ムガヒンガ山の山麓部で、ゴリラへのアプローチをはかる藤島氏と今西先生。常緑樹と竹の混生地帯であった。ゴリラはこの竹(Armndinaréa alpina)の筍を好む。