第10回 「ゴリラとピグミーの森(2):バトゥワ・ピグミー」

 二つ目のポイント、バトゥワ・ピグミーの紹介です。

 まず、何といってもトラッカーとしての優秀さ、ゴリラとの一回目の出会いはルラマガとルワテラの、二回目はギショーとルリサのおかげです。「わたしは、ルラマガのあとにぴったりとつく。かれはまるでなにかに憑かれたように、驚くべき的確さでゴリラの臭跡をたどってゆく。臭跡は、川床から左岸の斜面をよ(攀)じている。(略)ここに粗末な巣があった。数はかぞえられない。(略)休息のために作った巣だ。糞が散らばっている。ものすごく大きなやつがある。オスの糞にちがいない」(『ゴリラとピグミーの森』117頁)。

左:「追跡中のギショゲ(手前)とルリサ」。この直後、スクマ・チーフ一家と再会を果たします。中央:「オブホラ(小型の蜂)の巣を見つけたルラマガ。エントワトワのノミのようになった石突きで、木の幹に穴がうがち、蜜を採る」。右:「ギショー(左)が木に登ってコロブシ(ヒョウタン)に入れてきたオブホラの蜜の、その最後の一滴をなめるルリサ」
:ハチの巣から蜜を採るため、石突きを鑿のように平たくした槍。

 同時に、彼らの生活にも目を配ります。とくに印象的なのは“”と“踊り”です。

左:「トゥワの一人ゲラゲジ。寡黙だが好人物だった」。中央:「トゥワ・ピグミーたちの食事風景。右はルリサ・カゲシャ。もっとも精悍なハンターで、私(伊谷)とはよく言い争ったが、互いに信頼しあっていた」。右:「竹筒でつくったパイプを片手に、歌い踊るギショー・ギジョゲ」

 以下は、ルワルテが歌い、バチガ(別民族)のエリックが英訳した、バトゥワの家族関係を扱った「ヤンボゲネ・ウンテンデューレ」の歌詞と楽譜です。

「ウンテンデューレに行ったって、だれがわたしに会えるだろう
だれも二度とふたたびわたしには会えないだろう
キカンガガに行ったって、だれがわたしに会えるだろう
だれも二度とふたたびわたしには会えないだろう
わたしの父は昨日、あと妻を迎えた
ルヒザに行ったって、だれがわたしに会えるだろう
だれもが二度とふたたびわたしには会えないだろう」(『ゴリラとピグミーの森』155頁)

:ウンテンデューレは、カヨンザの森にそびえている峰(2,124m)、キカンガガはカヨンザの森の南の果ての、パピルスに覆われた湿原、ルヒザは深いムブワの谷の先にある場所

 次は、ギショーが歌う「バグレガ」の楽譜です。なお、この歌については通訳のバチガの若者が「これはトゥワ語で意味がわからない」として、翻訳はありません(同203頁)。

 さて、すでに1954年の高崎山で水原洋城氏に「自分はそのうち人類学を始めてホッテントットを研究するんだ」「ホッテントットと一緒に住んで、そん中から嫁さんもろうて・・・そうせんとできへんのや」と言って驚かせた先生ですが、当然、彼らの生活にも関心があり、ルリサの第一夫人の家を訪れ、「家というよりは、あるいは小屋といった方がよいかもしれないが」、「何よりも驚いたのは、あまりにも家具の少ない事だった」(同p.217)。そして、間取りと家具を左下の図に書き残しています。その上で「しかし、バトゥワも次第に変わってゆくだろう」「この森の小さな人々も、靴をはき、色眼鏡をかけ、真っ白なワイシャツを着るようになるのだろうか。しかし、いったいどっちが幸福なのだろう」と自問します。

左の図は、ルリサ夫人の家の間取りと家具(『ゴリラとピグミーの森』218頁)。右は伊谷コレクションに残された写真(詳しい説明文がないため、詳細は不明ですが、幾つかの写真は『ゴリラとピグミーの森』に掲載されています)

 一方で、バトゥワとともに暮らしているバチガの人たちについては、「丘の斜面は日本の段々畑のようによく耕されている。バチガは熱心な農耕民だ」(『ゴリラとピグミーの森』86頁)。

左から3枚は『ゴリラとピグミーの森』にも掲載されています。順に「イティマ。バチガらしくない鋭い顔をした男だった。右はルリサ。イティマはあまり背が高い方ではない。ルリサはそのイティマよりもはるかに低い」「エフライム(雇人)の二番目の妹。名前を聞くのをわすれた。12〜14歳だろうか。嫁入り前といった年頃だ。気立てがよく明るい娘さんだった」「バチガの家はこのような角型と丸型とがある。土壁と草葺き屋根は日本の家とあまり変わらない。壁は白壁だが、下半分を桃色のような色に塗っている(この写真も『ゴリラとピグミーの森』と左右逆のようです)」

 こうした光景から「生態系にすっぽりとはまり込んで生きている人々」vs.「自然に対抗し、自分たちの都合のよいように変えてゆこうとする開拓者」という、生態人類学で取り上げるイメージが次第に醸成されていったのかもしれません。

 さて、ゴリラ調査に見切りをつけて、カヨンザの森での滞在を切り上げるべく、先生はバトゥワとともに“入らずの森”アカゲジブイヨレレを横断することで心に区切りをつけます。(チンパンジーのいる)ブドンゴへ、そしてさらにタンザニア(当時はタンガニイカ)への転進です。

 その7年後の1967年1月2日、遠くタンザニアにいた先生に思いもよらぬ悲報が届きます。ドライバーのブケニヤが、カヨンザの森でルリサからギショーの死を知らされたというのです。以下、先生のノートです。

赤い点線で囲んだ部分:「(ブケニヤが)カヨンザに行って、ルリサに会ったという。彼は、ギショー・ギジョゲについて語ったという。ギショゲは森で蜂蜜を採ろうとしていた。木の下に1本の槍を突き立て、あと1本、おそらくエントワトワ(槍の一種;石突が鑿のように成形されています)を口にくわえ、そして木に登っていった。彼は木から落ち、自分が立てた槍に串刺しになって絶命したという。森の中での、何という悲劇であろう。しかも、あの私が会ったアフリカ人の中での最高の、そして最良の、もっとも愛すべき人格の、何という悲惨な終末であろう。恐らく、彼はにこやかに、ヤンボゲネ・ウンテンデューレなど歌いながら、おどけ、はしゃいで、木をよ(攀)じていたに違いない」

(以下次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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