第11回 「ゴリラとピグミーの森(3):疎開林とチンパンジー」

 カヨンザ・ブドンゴと鬱蒼たる森林での調査が続いた後、9月16日から始まったサファリで眼にした明るい疎開林(サバンナとミオンボ林)は、伊谷先生にとって快い刺激だったようです。

伊谷コレクションから「ウガンダ北辺のサバンナ。このようなサバンナがスーダンまで続いているのであろう」、「アチョリの水くみ女」等

「わたしは森を出て、思いきりサバンナを走りまわってみたいと思った」「いままでわたしの胸の中に仕舞っておいたわたしの課題のひとつをここではじめてとり出した。サバンナの狩猟部族をさがして歩こう」「わたしの心は、妙にはずんでいたのかもしれない。その翌日の、まるで無目的なドライブが、いまでもわたしの脳裏に強烈な印象を残している」(『ゴリラとピグミーの森』265-266頁)

 “無目的”! それまで、幸島から高崎山、モンキーセンター、そしてゴリラとひたすら“目的”に向かって邁進してきた先生には、とても魅力的に響いたかもしれません。そして、その“無目的”な旅が新たな“目標”を見つけることにつながる、これが終生“extensive survey”と“intensive survey”の両立を説いた所以かもしれません。

カラモジョンの男性たち

 とくに牧畜民カラモジョンとの出会いは印象的です。「わたしはかれらとすれちがうたびに車を止める。「ジャンボ(こんにちは)。」「ジャーンボ。」カラモジョンは答える。しかし、ただそれだけだ。ブケニヤがいろんな言葉を使って、何とか意を通じさせようとする。「ダメだ。ブワナ、なんにも通じない。まるでわたしの知らない言葉を喋るんです。」。さすがのブケニヤもさじを投げてしまった」

 そして、こう漏らします。「わたしはいままでに言葉の通じないいろんな部族の、多くの人々と出あってきた。言葉は通じなくても、おたがいに人間としてのきわめて自然な感情の疏通があって、本当に困ったという体験はなかった。しかし、目の前に突っ立っているカラモジョンの男とわたしの間には、そういったコミュニケーションのための共通の基盤さえもが失われているとわたしは思った。そこには、いかんともしがたい断絶があることを、わたしは感じていた」(同p.272)。

 一方で、目的としていた狩猟採集民にはついに会うことはできず、いったんカンパラに戻った先生は、今度は、リーキー博士から聞き出したタンガニイカ(現タンザニア)でのチンパンジーの予察という“目的”に向かって、再び疾走し始めます。今西からも「タンガニイカのチンパンジーの予察をやれ」という電報が届きました。9月27日にカンパラを出発、ヴィクトリア湖西岸をひたすら南下、乾燥林帯を走り抜け、28日深夜ついにタンガニイカ湖東岸の町、キゴマに到着します。ここからは、湖上をいきかうボートに乗って、ゴンベまで北上するほかありません。

左はKigoma到着時のノート(9月28日)「(午後)8:35 Geological survey. 9:10 Leopard(道の行く手をヒョウが悠々と通り過ぎました) 10:30、KIGOMA. 行程は上記の通り。Hotel、カレー&Riceを1人分4Sh.(シリング)もとられた。早立ちでno breakfastでdeparture。そして、biscuits?(ビスケット)のみで実に14時間45分、350マイル余を走った。私たちの最高記録だ。しかし、大いに疲れた」。右は、伊谷コレクションからタンガニイカ湖の様々な顔

 さて、リーキー博士から聞き込んだ(同時に、出入り禁止を言い渡されたはずの)ゴンベへの移動手段を探さなければなりません。まず、D.C.(District Commissioner;地区弁務官)に会い、Gombeの情報を得た後、港に出向き、首尾よくボートを見つけます。D.C.に戻って一等弁務官からグドール母娘あての紹介状を得ます。この時、先生ははじめてその名前を知ることになります。下の図の左側、ノートの33頁には「(若い)船長だ。すぐにD.C.に戻る。First Officerは親切な人だった。彼はGombe Streamに住んでいる2人の婦人にletterを書き、それを私に託した。Mrs and Miss Goodall。私はAinsworth? HotelにUgandaからやって来て泊り、Coryndon(博物館)にゆくという美しい娘と、その母親のことを思いだした。この人たちではないだろうか」と書かれています。

 ボートはやがてキゴマを出航、北上しますが、右上の36頁「Lake Tanganyikaの沿岸の浦々には、DAGGAA*獲りの小さなhutが沢山できている。下北の武士泊とか、幸島の大泊**とか、そういったhutsだ。2.23 p.m. 山にかかり、Tanganyika Forest Reserveの標示(ゴンベの保護区の境界?)」のところで、ノートは唐突に途切れ、残念ながら、肝心のグドールとの出会いはノートに残っていません。:Dagaa、スワヒリ語で小魚の意味。各地で魚種が違いますが、タンガニイカ湖ではニシン科の2種(Limnothrissa miodonとStolothrissa tanganicae)を指し、大量に水揚げされ、干魚として広く流通する重要魚種です。**:幸島の磯崎さんたちの住まいを想い出したことでしょう。

 ということで、以下は『ゴリラとピグミーの森』の295〜297頁からの抜き書きです。ゴンベに着いたそうそうに母親のグドール夫人と出会い、挨拶をかわします。「グドーさんですか。」「そうです。」「あなたですか、チンパンジーの調査をしていらっしゃるのは。」「いいえ、わたしの娘です。午後6時すぎなければ、娘は山から帰ってきません。まあお座りなさい。お茶でも入れましょう。」

 「リーキー博士から、ここに来ることはまかりならぬ、と言われたのですがね。」「だのに、あなたはやってきたのですね。」グドー夫人は、明るく笑って言った。「どうしてもここのチンパンジーの棲息地を見たかったのです。」「じゃあ暗くならないうちに、そのあたりまで案内してあげましょう。」

 裏手の山を歩いた後、浜に戻った先生は考えをめぐらします。「こここそは、わたしが求めていた場所だ」「かれら(チンパンジー)はいったい何に魅せられて、サバンナに出ていったのだろう。しかし、その後かれらは明らかに敗退したのだ。それは何故だったろう」「わたしはゴンベ・ストリームの乾燥林を見て、ここがチンパンジーたちの最前線基地であるというよりも、かつてもっとサバンナで繁栄していたかれらの、最後の堡塁のひとつではなかったろうか、と思ったのである。ここも、この南のマハリ山塊も、そして、リーキー博士が言うニヤサ湖の東、モザンビークの棲息地も。しかし、とにかく、このいずれかをこそやるべきだ」

 そこに、観察を終えたグドールが戻ってきます。「日本からいらしたのでしょう。」「そうです。どうしてご存じですか。」「リーキー博士から来た手紙に書いてありました。」「わたしがここに来るってですか。」「いいえ、ゴリラの調査にいらしたって。」伊谷先生がゴンベを辞去したのは、キゴマ行きのボートが沖合を通った午後9時、グドールに「あなたの研究成果が発表されるのを待っています」と別れを告げます。

グドールの回想

「伊谷純一郎さんにお会いしたのは1960年でした。その年、私はゴンベでチンパンジーの研究を始めたのですが、最初の訪問者が彼でした。ジュンは、それ以来、私の恩師だといえます。そして、年月を経る中で、智恵ある仲間となり、そして親友となったのです。我々は、今日、霊長類や、我々をとりまくこの世界について、何がしかを知っています。その重要な事柄の多くは、彼の手によるものです」

 ノートは翌日(9月30日)、キゴマでの6時の起床から再開します。9:20にはホテルを出て、一路南下。午後7:20にムパンダホテルに着くと、そこにたむろする白人たち=「すべて悪路を乗り越えてきた百錬のつわものども」に現地事情を尋ねます。左下の図(67頁)はそうした聞き込みの一部ですが、マハレに関するもっとも初期の具体的情報かもしれません。「この山のLake側にchimpがいる。Bush、そして疎林、ところによってはきわめてthickだという。TransportはMpandaより、Mahari Mts.のでっぱりの北の方、Kasogiまでランドローバー(のみの通れる道がある)」。ノートの先には、さらに翌年基地をかまえることとなるカボゴの情報も含まれ、「Kabogo headとなるとapproachはKigomaからの方がはるかに速い」等の記述が残されています。:なお、現在、MahariはMahale、KasogiはKasojeと表記されているように、現地名のアルファベット表記も時代によって変わることもあり、ご注意下さい。ちなみに、Google scholarで検索すると、1940〜1960年頃はMahaliやMahariの表記が混在していたようです。

 さて、カボゴやマハレまで小型車で行けないならば、あとはこの奥地からの脱出を考えなければいけません。こちらも客たちから情報を仕入れ、道なき道をたどるタンガニイカ横断を覚悟します。とは言え、翌朝パンクを直し、教えられた道を下調べに出かけると、さっそく迷ってしまいます。その時、たまたま出会った白人ハンターたちに道を教わるのですが、そのうちの一人から、ダル・エス・サラームからナイロビへ戻る時には、途中のアルーシャの自宅を訪ねるように誘いを受けます。手帳に記されたその男性の名前はP・ヘミングウェイ、ノーベル文学賞受賞者のE・ヘミングウェイの次男、パトリック・ヘミングウェイでした。

左のノート:男性は「このrouteはmapにはないけれども通れるという。not badということだ。そして、10月〇日にはアルーシャにつくだろう、とのこと。われわれ迷える羊にとって、これはまことにいいinformationであった。この男は、アルーシャに住む、Mr. P. Hemingway P.O.Box 504 Arusha」(続けて次頁に)「とにかく、アフリカの奥の奥、Tanganyikaの原野の果で、ヘミングウェイと名乗る人物に会おうとは、何たる奇遇だろう。しかも丸顔のにこやかな好青年で、(作家の)ヘミングウェイに非常によく似ていた」(伊谷先生はヘミングウェイの作品に影響を受けているはずです)。右の写真:疎開林にぶら下げられたビーハイブ(ハチの巣箱)、道路、バオバブ等。右下隅は道中ででくわした故障車(手前に先生たちのオースチンが写っています。「ブケニヤが(故障車を)見てやったが、とても駄目だということだった」)

 そのあと、ムパンダに戻ってGame ranger(猟区管理官)のアンステー氏に会い、猟政関係のディストリクト・ブック等を借り、この地域のチンパンジーに関する記録をチェックしました。

 翌10月2日、8:10にホテルを出発、午後7:30タボラ着。次の日は7:15にタボラを出発、イチギを過ぎたあたりでエンジンが止まり、たまたま通りかかったトラックに曳いてもらってドドマに到着。10月4日にドドマ出発、ようやくたどり着いたダル・エス・サラームでは、猟政局でウガンダから転勤していたキンロック少佐と打ち合わせを済ませ、来年度の調査のために地図等を求めます。そして、アルーシャで約束通りにヘミングウェイ宅に寄った後、ナイロビでこの長い旅が終わりましたが、それは同時に、長いアフリカ研究の始まりでした。

(以下次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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