第13回 「カボゴと京都大学アフリカ類人猿調査隊(KUAPE)」後半

 KUAPE隊は、1961年11月14日、タンザニア中央鉄道で3:30pm出発の便でダルエスサラームを出発、11月16日の8:00amにKigomaに到着します。翌17日の伊谷先生のノートに「21日がMiss Goodallと会う日と決まったので、本日、まずGombe Streamを見ること、ついで1日おいて19日より1泊で、軽装でKabogoを見に行くこと、そして20日夜帰り、21日、Goodallに会うこと」とメモします。しかし、どういうわけか、ノートには17日の朝、ゴンベ行きと思しい船外機ボートに乗ったところから、白紙が何ページも続き、23日の朝までの記述がありません。したがって、これらを済ませたかどうかはわかりません。ただし、ノートの末尾にグドールのケンブリッジでの所属先のメモがあり、お会いした可能性があります。

 次のノートは11月23日から再開、この日、カボゴ岬のムクユの浜に上陸(下左図)。あた、下右図は11月25日のノートに残された周辺の地図です。当時、この一帯は無人でした。

左「(黒い海にさらに黒くつ)きでた岬。クサビ状の岬が、いかにもdämonisch(ドイツ語;悪魔にとりつかれたような/超自然的)なものを与える。最后の岬を回る。切りたった崖に、谷が5本入っている。それをつめる。まわると、shore(浜)がある。shoreがあってよかった。11:45 pm ランプをともして上陸。せまい浜に一面のelephantのfoot printだ。そして、そのほかにbuffaloらしいのや、ヒョウのdung(糞)あり。場所をもすこし南に寄せて、そこでtent張る。2つ張って、Imanishi、Itani、Katayose(片寄俊秀隊員)と、あと***(判読困難)」。右「(このあたりに前進キャンプをはって、chimpを見るのは快適だろう。approachは実に楽で)Campを変えるべきだ。しかし、あまりにもnestが少ないのは、どういうことだ」:ネスト(ベッド)が少ない=個体数が少ない可能性を示唆し、調査の前途に影を落としたかもしれません。


ムクユ浜にて

 やがてプレハブ建設が始まります。左下の写真は土台作り、写っているのは片寄俊秀棟梁(当時、西山卯三研究室の大学院生)、のちにこの経験を綴った『ブワナ・トシの歌』で有名になります。右は竣工式、現地の人々が招かれています。「美しいミオンボの林の中にあり、この台地の下にはタンガニイカ湖がひろがり、朝に夕に、山の方からはチンパンジーの声が聞こえてきました」。なお、写っているのはセキスイハウスA型です。:アフリカ南部の半乾燥帯(年間降水量800〜1200mm)に広がる疎開林で、樹高15〜20m、マメ科ジャケツイバラ亜科のBrachystegiaJulbernardiaIsoberlinia属の中高木が優占します。

 こうして希望に溢れて始まった調査ですが、しかし、苦難に満ちた日々が待ち受けていました。「カボゴの山はけわしく、そのうえこの山塊に独特の厚いやぶが、つねに観察者とチンパンジーのあいだをはばんだ。最初からこころみた餌づけも軌道に乗らず、カボゴでの調査は、この2年間で完全に行き詰まった状態になっていた」(『チンパンジーを追って』13頁)。

カボゴ関係の写真。左から3枚目は「基地で読書する今西先生。いまから思うと、このセキスイハウスには何でもあった。空調も、発電機も、冷蔵庫も、図書も、顕微鏡も、ありとあらゆる日本の食料も。しかし、調査進行上の理由から、チンパンジーの調査に使用したのは2年だけだった。私たちはやがてこの基地を棄て、もっと奥地に入ってゆかなければならなかった」。4枚目は「1961年、キゴマより船を出して、ゴンベ・ストリームにジェーン・グドールをたずねる。左より2人目、東滋君。そのうしろ今西先生、伊谷、ジェーン・グドール。このとき彼女は風土病にかかっていて元気がなかった」

 2年後の1963年10月4日、タンザニアの都市モシのホテルでKUAPE隊員の会議が開かれます。その議事録がノートに残っていましたが、内容は厳しいものがあります。出席者は、今西、富川、富田、東、豊島(西邨)、梅棹、伊谷、畑(端信行の間違い?;人類班)、谷口(譲;人類班)、桐野忠大(東京医科歯科大学、人類班)、和崎(洋一、人類班)、河端(繁、映画班)、村上(進、同)、小泉(隆三、同)。なお、民族学博物館の資料ではこのほか、川那部(浩哉)と伊沢(紘生)も参加していたようです。

 以下、適宜編集しながら、文字起こしします。左のノートは「‥譟∨島(西邨) Kabogoについて 餌付けについてははかばかしくなく、両者とも最近では病人であって、充分に山がやれない状態である。越冬が冬眠にならざるを得ない事情があった。Kabogoに逼塞しなければならなかった。周辺の予備調査をほとんどやっていない状態であった。イラガラ(キゴマからの中継点)をやった。不満足ながら・・・。餌付けは、Kabogoのchimpは、第1次が入った時、Gombe Streamがダメになり、急遽Kabogoに入ってしまった。Kabogoはとくに悪い場所ではなかった。populationは85〜100くらいだと思う」

 右のノートは「riverine forest(河辺林)に入ってしまうとほとんど駄目である。2年間ねばった間、断片的だが、その間をつなぐものがないという状態である。餌付け(は)マンゴ、バナナ、ハチミツを断続的に続けてきた。Chimpが食っているのを見た記録は、直接はないが、断定してよい。しかし、nomad(遊動)が一定の規則正しいものでないので困難。一つ、**(偽景?)作戦という方法はまだやっていない。ハチミツを続けるということ。パパイア、バナナを山に植えるということをしている。パパイア(は)2年くらいで(実が)なる。1965年のdry seasonになる。1965年のrainy seasonにはバナナを植えるつもりをしている。その間、Kabogoの調査の比重を減らしても、1965年にはもう1度入る必要はあろう。基地があるし、畑の管理が必要なので、人員を残すことが望ましい。これには・・・」

 東からの報告が終わると、今西は「今後も続けるか否か、ということが問題である」と発言、東が「タンガニイカ湖の異常増水でバナナ畑が壊滅の状態である」等と説明を加えると、今西はさらに、 ̄舵佞韻鮹杷阿擦困法Kabogoを続けるか、餌付けを第一にせず、他を選ぶか、1舵佞韻鯊莪譴砲靴董他をやるか、との選択肢を提示します。しばらくやり取りが続いた後、最後に今西は「2年頑張った人は、ここで帰った方が良いと思う」と発言、議論はいったん終わります(この後、エヤシ湖の人類班についてもやり取りが続きますが、ここでは割愛します)。最終決定としてカボゴでは、豊島(西邨)が10月中に帰国、東も早晩帰国が決まります。

ムクユのバナナ畑(1963年12月14日)、カサカティ予察(2枚、同10月30日)、基地作り

 会議後、伊谷先生は決断を迫られます。「1963年の10月に、私は新たに伊沢紘生君(自然人類学研究室の新入院生)をともなってカボゴを訪れたが、何とかして調査の行き詰まりを打開しなければならなかった。ゴンベ・ストリームでは数頭のチンパンジーがグドール嬢のキャンプにあらわれ、餌をとるまでになっているという噂が流れていたし、前年には英国の人類学者レイノルズ夫妻がウガンダのブドンゴの森で調査をおこなったという情報も入っていた」「こうして私たちはカボゴの後背地の奥深くに入ってゆくことになる。(略)1963年の10月の半ばから11月いっぱいかかって2度の予備調査をおこない、12月の半ばに、調査基地をカボゴからカサカティに移したのである。こうして1962年の1月に竣工した豪華なムクユの基地は、わずか2年足らずで事実上捨て去ることになってしまった」(「チンパンジー記序説」43〜44頁)。

断章:基地を捨てる

 夜が白んできて、窓をあけ、ムトゥルの木立の間を流れるつめたい空気を(研究所の)室内に入れ、二度三度、山のほうから聞こえてくるチンパンジーの声を野帳に記録しながら、私は、ほんとうにこの(ムクユの)研究所を捨てるのだということを意識していたのだ。(『チンパンジーを追って』88頁)

 こうして、否応なく、新しいフィールドと新しい体制が始まりました。それは、前年の1962年10月開設の自然人類学研究室(伊谷先生はモンキーセンターから京大に移籍)及び新入の院生を中心とする体制への移行であり(伊沢、西田、加納、鈴木ら)、オルガナイザーが今西から伊谷に継承されたことでもありました。こうして、1963年末から基地移転が始まるのですが、次回は“間奏”として調査の中継点であるKigoma/Ujijiの紹介や、当時のタンガニイカ/タンザニアの状況、そしてKUAPEのもう一つの姿=人類班等もわずかですが触れたいと思います。

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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