第14回 「間奏2:キゴマ/ウジジ、タンガニイカ、そしてKUAPE」

 今回は“間奏”として、調査の中継点であるKigoma/Ujijiと、KUAPE当時のタンガニイカ/タンザニアの状況、そしてKUAPEのもう一つの姿=人類班等、色々な話題に触れます。

 まず、キゴマとその10kmほど南のウジジの町について、伊谷コレクションからいくつか写真を選びました。上段左端の写真は町の中心部を写したものですが、「キゴマの町は、タンガニイカ湖東岸にあり、タンガニイカ中央鉄道の終点。湖岸に近い駅から、メーン・ストリートが市場(ソコ)まで伸びるが、この両側にはドイツ領時代に植えられた立派な並木がある」。その右の写真は「ストリートに面して、ゴールデン・ライオン・ホテルという古いホテルがあり、キゴマではここに泊まった。キゴマの北のジェーン・グドールの基地、ゴンベからも隊員が来て、このホテルのロビーで調査の情報の交換などした」

 さらにその右の二つは、ウジジにある「バートン&スピーク記念碑」と「リヴィングストン記念碑」です。このあたりはもともと奴隷貿易等の内陸交易路で、19世紀にはウジジがアラブ系の奴隷商人による交易都市として発達しました。そのルートをたどって、1858年にナイル河の源流探検で知られるバートンとスピークが到着します。さらに1871年11月10日にはリヴィングストンとスタンリーが邂逅したことで有名です。なお、下段はゴールデン・ライオン・ホテルでの当時のスナップを並べました。

 その後、1885年のドイツによる植民地化にともない、インド洋沿岸のダルエスサラームから鉄道が敷設されると交易・行政の中心地は、終着駅とそれに接続する埠頭が設けられたキゴマに移ります。付近一帯はキゴマ州(45,066km2)とされ、その州都になったキゴマは、鉄道と汽船が(現在は飛行機も)連絡する“植え付けられた都市”になります。

左上の図は、KUAPE時代のキゴマ・ウジジ市街地図です。1960年代にウジジで都市人類学を研究された日野舜也さんの「アフリカ人都市の社会的特性」[1967]掲載の地図を一部改変してあります。右は伊谷コレクションに残された写真・絵ハガキ類、上から順にドイツが敷設し、第一次大戦後は英国が管理したタンザニア中央鉄道[キゴマへの開通は第1次世界大戦勃発直前の1914年]、そのターミナルであるキゴマ駅、そして駅のそばの埠頭を利用する貨客船リエンバ[第1次大戦前はドイツ所有のグラーフ・フォン・ゲッツェン])。:軌間は植民地によく見られるメーターゲージ(1000mm=1m)、枕木は(シロアリ対策からか?)鉄製で、その表面に「Krupp、1908」等の刻印が押されていました。1980年頃には、ドイツ製らしい蒸気機関車の姿も見受けられました。

 さて、第一次世界大戦後、タンガニイカはドイツの植民地からイギリスの委任統治領に移行します。その16年後、KUAPE隊のカボゴ到着後まもない1961年12月9日に、イギリス連邦の一国、タンガニイカとして独立します。翌年には共和制に移行、さらに1964年にザンジバル人民共和国と合併し、国名をタンザニア連合共和国に変えます。下は、伊谷コレクションに残っている、1961年末の独立(スワヒリ語でウフル)の祝典の写真です。

左「1961年12月にタンガニイカは独立。全国で盛大な祝典があった。これはウジジで撮ったもの。暗くなって、それまで広場に掲げられていたユニオンジャックへの照明が消され、群集に満ちた広場は暗黒となったが、再び照明がとぼされたときにはタンガニイカの国旗が翻っていた。写真はないが今西先生もこの祝典を見ておられる」。中央と右「各部族がそれぞれの伝統文化にもとづく衣装を身につけ着かざって集まり、歌っていた」

 このような政治・社会的変遷ゆえに、キゴマ―ウジジ周辺には独特の複合社会が成立します。日野さんは「アフリカ人都市の社会的特性:UJIJIにおける階層化と生業分化」(1967)で、住民を非アフリカ人とアフリカ人に分け、前者をさらに①主に商業を営むアラブ人(Waarabu)と②インド人(Wahindi)、そして③ごく少数のヨーロッパ人(Wazungu)に分けました。また、後者は④イスラム化したバンツー系諸民族(Waswahili)、⑤隣接地域から労働者として転住してきたハ人(Waha)、そして⑥他地域のバンツー系民族出身で、新しい独立政府の機関等への赴任者(外来者、Wageni;スワヒリ語で客を意味する)の6つの階層に分けました。それらの階層集団のヒエラルヒーは、以下の図のように変遷します。伊谷先生が最初にキゴマを訪れた1960年は“イギリス時代”の最晩年に、そして1962年以降は“独立時代”にあたるわけです。なお、日本人はWazunguに包含されます。

 タンガニイカ湖もこの地域を語る時に、忘れてはならない存在です。東西約50km、南北約670km、大地溝帯によってできた構造湖です。湖面は海抜773m、最深部は1470m、面積32,900km2で世界第6位です。時に竜巻が起きることもありますが、タンザニア、ブルンディ、コンゴ、ザンビアを結ぶ交通路であり、同時に多くの魚が生息し、周辺住民にタンパク資源を提供しています。

タンガニイカ湖の地図と、当時の写真を並べてみました。植民地時代からの汽船リエンバや近代的港湾と、現地の人々の暮らしが混在しています。右下の魚はクングーラではないかと思います(下のスケッチ参照)。

 下の図は1961年11月17日付のノートに残されたタンガニイカ湖産の魚たちのスケッチで、食糧として大いにお世話になります。とくに左から二つ目のコイ科のバラガや、カワスズメ科のクングーラ[下中央]やクーヘ[右上隅]は美味です。

 雑誌「モンキー」58号掲載の「タンガニイカ湖畔の動物記」で、伊谷先生はこの湖について「浜に張ったテントの中の、カンバス・ベットに横たわって、夜の静かな波の音を聞いていると、これは海ではない、やっぱり湖なのだ、と思う。それは、海のような、ザァー・ザァーとひいては返す水の音ではない。何かが、渚で踊っているような、チャプン・チャプンという音の繰り返しなのだ」という印象を書き残しています。

 最後に、今西さんが率いたKUAPEが類人猿研究にとどまらない広がりを展開したことにも触れましょう。文化人類学者の米山俊直は「アフリカ研究の回顧と展望:文化人類学」(1984)で以下のように回顧します。

「長島(信弘)の言うように、1960年代のアフリカ調査は東(日本)の個人調査に対して、西(日本)の集団調査という色彩が強かった。これはひとえに、西に今西錦司という行動力のあるリーダーがいたことによる。今西は戦前からポナペ島、白頭山、大興安嶺等の学術探検のリーダーであった」(第1章の「今西を中心としたネットワーク」の図を参照)。

「今西は霊長類の研究グループに伊谷、(略)徳田喜三郎等を擁していたが、他方、人文科学研究所の研究会には上山春平、梅棹忠夫、(略)谷泰、米山等が参加していた。アフリカ調査の計画も、この両者が母体となって進められた。中心はタンガニイカ湖畔でチンパンジーの調査にあたる類人猿班と、タンザニア北部のエヤシ湖畔で狩猟民ハッザ、牧畜民ダトーガ、それにイラク等の農耕民の調査にあたる人類班がその出発点であった。1963年以降タンザニア北部のハナン山麓にも基地を作る等の拡大があったが、出発点はこのいわば車の両輪であった。類人猿班と人類班のほか、建設、医学、映画、陸水、自然人類・古生物等の班ができた。人類班には富川盛道、富田浩造、梅棹忠夫、和崎洋一、端信行、谷口穣、藤岡喜愛、高木隆郎、林薫、日野舜也、和田正平、福井勝義、石毛直道、田中荘一、田中二郎、および米山が名をつらねている」

左上の図は、KUAPE人類班でエヤシ湖周辺のマンゴーラで牧畜民ダトーガを研究した富川さんの報告“Family and daily life an ethnography of the Datoga pastoralists in Mangola (1)”(1978)から、周辺地図とHomesteadのスケッチです。地図ではマンゴーラが、1961年に伊谷先生がハッザを予察したオルデアニに近いこともわかります。

 こうしたKUAPE等の活動で、アフリカ研究にかかわる多くの研究者の間に広汎なネットワークが形成されます。類人猿研究はもとより、エヤシ湖周辺を中心とした狩猟採集民・牧畜民・農耕民を対象とした人類学的研究や、化石人類を扱う古人類学的研究をも包含した、今西さんが企画・組織した最後で、最大のプロジェクトとなります。

左は、伊谷コレクションからのピックアップ。上の2枚はエヤシ湖周辺で進められた自然人類学の発掘調査のようです。あとの4枚は牧畜民を対象とした文化人類学的調査と思われます(なお、コレクションにはエヤシ湖関係の写真は少なく、かつ説明文等がほとんどついていません)。右上は、椎野若菜氏(2008)による「科研費をベースにした研究者ネットワーク」を参考に、一部を改変した図です。この図の左半分をエヤシ湖人類班の系譜が占めています(1961年の参加者は枠線が二重線)。また、色付けされているのはヒトを対象とした研究者を示します。

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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