第15回 「自然人類学研究室と霊長類研究所」
アフリカでの研究とほぼ平行して、1962年10月、京都大学理学部に自然人類学研究室が設けられます。
「国立大学で人類学の講座があるのは東大だけだった。大学に研究の場をもつことは私たちの夢だったが、それがついに実現したのだ。私たちの活動をじっと見守って下さった宮地伝三郎先生*の御恩を忘れることはできない。今西先生が人文(科学研究所)と理学部自然人類学講座の教授を兼担され、10月に私が着任し、今西先生が兼任なのでもう一人助教授をとれることになり、新潟大学の形質人類学者池田次郎氏をお迎えした。助手には日本モンキーセンター創設時に私を支えてくれた葉山杉夫君と、川村さんや故吉葉健二君とともにインドで優れた研究成果をあげていた杉山幸丸君を選んだ」(『サル・ヒト・アフリカ』63-64頁)*:動物生態学者(1901〜88)、京都大学理学部生理生態学研究室教授、モンキーセンター所長等歴任。
左から順に、今西錦司教授(人文科学研究所教授兼任)、池田次郎助教授(後に2代目教授)、伊谷助教授、杉山幸丸助手、葉山杉夫助手
ここで、伊谷先生以外の先生方を紹介しましょう。まず、今西教授は京大農学部の出身ながら、1933年に理学部に転じ、48年に有給講師、50年4月に人文科学研究所講師に転じ、59年6月社会人類学部門の教授に昇任、62年10年から理学部教授と兼任します(写真は1958年の最初のアフリカ行きの際のパスポート用)。
池田助教授は東京帝大理学部卒業後、広島県立大学・新潟大学医学部を経て、赴任します。専門は形質人類学(下図)、とくに西アジアでの調査が中心でしたが、京大赴任後は高崎山でのニホンザルの生体計測や、エヤシ湖周辺でハッザの生体計測や人類化石の調査にも携ります。
刀痕のある中世人頭骨(池田・多賀谷、1979『人類学雑誌』87(3):347-351) 中央:右:霊長類の口頭嚢の矢状・正面断面図の比較(葉山、1970)
杉山助手は東京教育大学卒業後、京大大学院に進み、高崎山群で分裂を報告(下図)、さらにインドでハヌマンラングールを観察、世界ではじめて“子殺し”を観察します。1970年に霊長類研究所助教授に就任、87年に教授昇格。
1959年の高崎山群分裂の初期段階と分裂完了時(Sugiyama 1960の図に一部改変)
葉山助手は日本モンキーセンターに獣医師として赴任後、自然人類学教室に助手として赴任。その後、東北大学歯学部や関西医科大学解剖学教室等に在職、霊長類の喉頭嚢(下図)や樹上運動適応、猿回しをモデルとする二足起立運動適応等、ユニークな研究を手掛けられました。
霊長類の口頭嚢の矢状・正面断面図の比較(葉山、1970)
これらの図を見ると、専任4人は相当な幅のある研究分野をカバーしていたことがお分かりいただけるでしょう(ここに1970年代から生態人類学が加わります)。
さて、講座設立の最大の効果は、研究後継者としての大学院生の採用・教育でした。とくに1963年に入学した加納隆至・伊沢絋生・西田利貞さんの3名はそれぞれ独自のフィールドを構えて長期調査を維持、さらに多くの院生・研究者を養成します。この時代は、日本全体が高度成長期にあたりますが、研究面でも同様でした。
加納、伊沢、西田さんらによる、チンパンジー研究での3つのスケール。左から、生息地域全体での分布(Kano, 1971)。中央は単位集団の遊動パターン(カサカティZ group;Izawa, 1970)。右は集団内の離合集散(マハレのK集団;Nishida, 1968)
「理学部の人類学の講座は、かつて今西先生が巣くっておられた別館(通称、寄生虫*)に居を定めた。(学部生向けには)通年1コマの講義があり、私は半年分を担当した。この講義室には、教卓にも学生の机にも灰皿が置いてあった。右手にチョーク、左手の煙草を吸い吸い話すのだが、ある時夢中になっていてチョークを口にくわえてしまい学生の爆笑を買った。*:その昔、ある院生の方が他の研究室のメンバーと雑談時、「あっ、あの“寄生虫”にいるのね」と言われ、「やっぱり、おれたち人類(研究室)は、動物学教室の寄生虫なんだ」と衝撃を受けたとのことです。もっとも、この通称は、この建物はかつて寄生虫を研究していた講師の山口左仲氏が1934年に寄贈したことに由来するとのこと。ちなみに、かつては今西さん(農学部)や徳田御稔(北大)さんら動物学科出身でない“外様”の講師がたむろし、伊谷さんが最初に今西さんを訪ねたのは、一階の寒々とした部屋だったそうです(斎藤清明氏、私信)。
金曜日は終日(大学院生向けの)特論とゼミナールで、ゼミは院生の研究の徹底討論が主なのだが、時には深夜に及んだ。朝、ゼミの最中の部屋の流しで、二日酔いの反吐を吐いている立派な院生がいたりした。春秋には全員で山菜摘みと茸狩りにいった」
左から旧人類(通称寄生虫)の建物(現存せず)。山菜採りと茸狩り(畏友土倉久三氏と)でのスナップ(この2枚はM. Huffmanさん提供)
「修士課程の院生には、ニホンザル研究のほかに(生態人類学では)沖縄で調査をさせた。2年間沖縄のフィールドでみっちり仕込んで、博士課程でアフリカに放り出すというのがルーティンになった。彼らにはそのあと就職難という地獄が待っていたのだが、ぜいたくな教育だったと思う」(『サル・ヒト・アフリカ』68-69頁)
それでは、具体的にどんな指導だったのか? 安渓遊地さんのご厚意で修士論文「八重山群島西表島廃村鹿川の生活復元」(1977『人類の自然誌』301〜377頁)の原稿をご提供いただきましたので、ここに公開します(なお、このフィールド[鹿川廃村]について、伊谷先生は安渓さんに「君の行くところは一か所しかない」と宣告したそうです(https://ankei.jp/yuji/?n=8)。さて、伊谷先生が推敲を加えた第1稿の最初の2頁です。先生が構成や文章に大幅に手を入れたことは明らかですが、これを印刷された論文とひかくするため、原稿を4つのパートに区切って、各パートを点線で囲んでみました。
次に、さらに第2稿による推敲も経て、最終的に完成した「八重山群島西表島廃村鹿川の生活復元」の最初の2頁分について、上記の4つのパートがどう変わったか、比較のため、該当箇所を同じ色の点線で囲みました。パートの順番が入れ替わっている場合もあれば、大幅に短くなっているパートもあります。例えば、緑色の点線で囲まれたパートは、第1稿では12行ですが、印刷では3行に短縮され、位置も大きく変わっています。こうした作業を通して、大学院生が論文の作成方法を学んでいくことが“指導”なのです。
この過程を安渓さんがブログに詳細に紹介しているので、その部分を引用しましょう。「伊谷純一郎先生が、どれほどの時間と手間暇をかけて、大学院生の論文指導をされていたか、を書き留めておきます。(略)1975年、修士論文を書くことになって、指導教員の伊谷先生に日本語の実用文の作文技術の手ほどきを受けました。テーマは、西表島の廃村鹿川(かのかわ)です。①まず目次を書いて提出します。これが第一関門。これに合格すると、②目次にそって本文を書いては、できた分だけ順番に伊谷先生のところへ持っていきます。すると、数日以内に加筆修正されてもどしてくださいます。ごてごてしたわけのわからん文章を、順序を入れ替え、“てにをは”を直してもらうと、あら不思議スッキリしてきます。③まれには、「このページ書き直し」の指示があったり、論文のしめくくりで詰まったりしていると、1ページ分ぐらい先生が書いてくださることもありました。④全体が戻ってきたら、新しい原稿用紙に書いていって、また見ていただきます。⑤それが戻ってきたら、図表の入った投稿用の原稿を書きます。ワープロがない時代は、根気よく手で書いたのでした。⑥伊谷先生は、それらの修士論文等が、論文集として公刊されるように計らってくださることが多くありました*。ですから、一冊の本を編むときには、いつもカバンの中に弟子たちの原稿を入れて、バスの中でまで校閲してくださっている姿を見かけたものです」(https://ankei.jp/yuji/?n=3097)。*:上記の原稿は『人類の自然誌』の中の1章として公刊されました
こうして新講座運営とアフリカでの研究に忙しい中、さらに新しい仕事がもちあがります。京都大学霊長類研究所です。「(1964年に)霊長類研究所設立計画がもちあがり、出来立ての自然人類学講座が概算要求の出願母体となり、3年間、予算時期に悪夢のような日々が続いた。葉山君の援助を得て進めたが、土地問題で行き詰まり、結局これは土川名鉄会長に解決していただいた。京都大学霊長類研究所は、1967年に犬山市官林に設立され、近藤四郎氏が所長に就任された」(『サル・ヒト・アフリカ』68頁)。
この作業の名残として、1965年6月付けの「京都大学霊長類研究所の創設(昭和40年度概算要求書草案)」が残っています(今から60年前、もはや古文書です)。下はその表紙(右肩にJ. Itaniのサイン)と各年度研究部門等増加人員調、そして必要理由ですが、これを毎年作成・提出していたわけです。
なお、この概算請求書はまだ原案段階で、推敲がほどこされているほか、必要理由(右)も手書きです。当時はもちろん、ワープロも表計算ソフトもあるはずもなく、膨大な手間がかかったことをご理解下さい。
こうした努力の末、1967年6月1日に京都大学の附置研究所として霊長類研究所が開設され、2022年3月まで存続することになります。
(以下次号)
編集・執筆:高畑由起夫
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