第16回 「カサカティ（イティティエ）基地とその周辺」
1963年に選んだ第２のフィールドは、内陸部のカサカティ盆地にあるイティティエ基地（左下図）。無人の荒野のため、３つの補給ルートの候補がありましたが（右下図）、予察で①と③は雨季等のアクセスが困難と判断され、②キゴマから車でイラガラまで南下したあと徒歩というルートを選ぶしかありません。しかし、それは第12回で触れたように、カボゴ基地放棄を意味しました。
左「第２の調査地カサカティ盆地。無人で野獣の多いところだった」。右：イティティエ基地へ３ルートが考えられましたが、①と③は予察の結果不適当とされ、②が採用されます（『チンパンジーを追って』63頁の図に一部情報を追加）。
それは同時に、今西さんが主導した「探検時代」的な大拠点主義から、小回りの利く小拠点＋軽サファリの組合せへの転換でした。こうしてカサカティとその周辺は「私たちの五体に原野の香りをしみこませたフィールド」になります（「チンパンジー記序説」45頁）。
カサカティ基地建設とそこで始まった生活
とは言いながら、悪戦苦闘は相変わらずで、カサカティ盆地の中をチンパンジーを探す日々が続きました。また、日本隊のお家芸だったはずの餌付けもうまくいきません。イティティエ基地をベースとしたサファリの範囲はいつしかトングウェ・ランドのほぼ全体をカバーするまでになります（下左図；『チンパンジーの原野』［伊谷、1977］8頁の図に一部情報を追加）。苦闘のなか、独特の研究スタイルが編み出されますが、その雰囲気を最もよく表現した文は、『森の隣人』（グドール著、河合雅雄訳、1973）への西田利貞さんの書評にある「女史（グドール）がチンパンジーに取り組んだのに対して、我々はアフリカに取り組んだ」かもしれません（「チンパンジー記序説」52頁での引用から）。
設備が整えられた基地をベースに、データが蓄積された（したがって成果もある程度予想できる）対象を選び、定められたテーマと方法で目標の資料を収集、理論にそって分析する、という（現在の）標準的な研究方法とは違い、いかにも非効率で成果に乏しいフィールドワークかもしれませんが、それゆえにこそ全身でチンパンジーとアフリカに取り組む。カサカティにもっとも長く滞在した伊沢さんは「カサカティは、これまで10数年にわたる私たちのチンパンジーの研究における、いわば新しく輝かしい朝を迎えるための、もっとも長い夜であったような気もする。それだけに、私は、あの美しく厳しい自然の中で、何人もの仲間とともに若い情熱を傾けてチンパンジーを追跡した日々の道程の記録をどうしても綴っておきたいと思った」と述懐します（「カサカティ盆地のチンパンジー（�供法�248頁）。
左：カボゴ（ムクユ）、カサカティ（イティティエ）、さらに奥地を目指したフィラバンガ、そして餌付けを試みた（そして成功した）マハレ（カソゲ）の位置関係とともに、調査ルートを示します（『チンパンジーの原野』8頁の図に一部情報追加）。中央：同じ地域のチンパンジーの分布。右：調査のかなめだったイティティエ基地
下は、イティティ基地からサファリを繰り返していた頃の写真やノートです。左上はサファリに出発するところの、左下はキャンプの風景。右側は1966年８月28日付けノートに記された準備メモの１部。テント2張り、グランドシート２つ、フライ１つ、パンガ（スワヒリ語で山刀）２つ、などと書かれています。ショーユ入れのポリビンというのもなんだかほほえましいところです。
こうした軽装備のサファリについて伊谷先生は「時間の経過とともに、またあくまでも現地における身軽さと活動性を尊重しなければならないという体験によって、しだいに軽装備の、そして単独行という形に移行していった。こうして私たちが到達しえた、観察者１人、アフリカ人のポーター２，３人による、10日から２週間の徒歩による調査を可能にした体制は、（略）機動性、持久性という点で、一つの傑作だといってもよいだろう」と自賛します（「チンパンジー記序説」）。その一方で、それは無人地帯でライオン等の野生動物とともに生活することでもありました。
加納さん、ライオンにぶつかる！
上は1966年９月12日付けのノート。加納隊員とともに、チンパンジーに接近した伊谷先生は「thicket（茂み）のトンネルをくぐる。その向こうがすぐにopenlandで、１本の葉を落とした木に、さっきのestrous female（発情メス）が地上７〜８ｍのところにぽつんととまっている。私を見ながら降りようとしない。一瞬、降りかけてやめる。そこに、右手の方からドタバタ足音がして、ふと見ると加納がやって来た。顔が真っ青で、土気色をしている。体が先に行こうとするのに、まるで足がついていっていない。走っていない。歩いているようにして私の前を横切ってゆく。Chimpもそれを見ている、私は、（彼が）何かに出会ったなとトッサに思った。Tembo（ゾウ）なら笑っていてもいいはずである。私の顔を見て「アカンド、アカンド」と言った。私はやぶの下から這い出す。加納がchimpの下を通ってドンドンゆく。肩で苦しそうに息をしている。ただごとではない。shimba（ライオン)に違いないと思う。「どうした」と言うと、やっと「shimbaを見た！」と言った。心臓麻痺でも起こすのではないかと思った。背中をポカンと叩き、chimpを一瞬（？）振り返って、そして加納に続く。chimpはやっと木を降りようとしていた」
この前後の脈絡については、『チンパンジーを追って』は「（ライオンにとっては）思わぬところから人間が近よってきた。例の素早い身のこなしで、シンバは川沿いを右に飛び、そこで加納君にぶつかったというわけだ。突然、加納軍の左手の草がゆれ、たてがみをひるがえした枯れ草色のやつがふわりと飛んできたと言うのだ。シンバはそのとき、のどの奥でうなったという」（147頁）
ライオンの咆哮：みな、おれのものだ！
それでは、サファリではどのやってチンパンジーを探すのでしょう。何よりも彼らの音声が重要な手がかりですが（彼らのロング・コールはかなり遠くからも聞こえます）、樹々に残されたベッド跡や足跡、糞も見逃せません。
左上：チンパンジーの後肢（足）と、ナックル・ウオーキングのために独特の形を残す前肢（手）の跡の絵（『チンパンジーを追って』［伊谷、1970］14頁）。右上：実際の手の跡。下２枚は、こうして出会ったチンパンジー。
左下の図は、こうした地道な調査から、チンパンジーの単位集団の分布を推定したものです（「チンパンジーの社会と適応」［鈴木晃、1977］305頁）。また、右下はこうした疎開林でのチンパンジーの食性から、初期人類の食生活とも関連づけられるのではないかと考えたマメ科のジャケツイバラ亜科の花と実の図です（『チンパンジーを追って』96-97頁の図を一部改変）。
そして、1965年９月３日、カサカティよりさらに東に入ったフィラバンガに新しいフィールドを探すためのサファリで、伊谷先生と鈴木晃さんは43頭のチンパンジーの行列を観察します（下図）。そして、その光景に“離合集散しながら社会の単位としてまとまった集団”という基本構造を見出します。
左はフィラバンガの43頭の行列と、その集団構成（『原野と森の思考』［伊谷、2006］62頁の図を一部改変）。右はその日に観察できたチンパンジーのスケッチ
この図から、伊谷先生は以下のように論じます。「チンパンジーの社会で最も顕著なのは、集団内のオスたちのきわめて強固な連帯であった。43頭からなる集団の行列にも、それは歴然とあらわれていた。この行列は、まず子持ちのメスばかりが先頭を切り（図では１〜21）、次に７頭のオスたちが隊伍を組むようにしてやってきた（同じく22〜28）。第３の最後の部分は、子を持たない性的にアクティブなメスたちの集まりだった（29以降）。この行列を観たのは、1965年のことだった。しかし、この社会の父系的構造の確定には1980年代まで待たなければならなかった。あとになって考えてみると、すべてはあの行列の中に示されており、ただ私たちは、それを解読する目をもたなかったのである。ある現象の存在を認めることはそれほど難しいこととは言えないのだが、ある現象がないと言い切るのがいかに困難なことであるか、私たちはそれを身をもって体験したのである。これが、この社会の父系的構造確認に至るまでの過程であった」（『サル・ヒト・アフリカ』204-205頁）
残されたことは、この行列が本当にチンパンジーの社会構造を表象しているのかどうかを、実際のデータで確かめることでした。その一方で、カサカティのチンパンジーはあいかわらず警戒心が強く、調査は難航が予想されました。 「私たちはこれまで、無人地帯のチンパンジー、つまり人間と接触をもったことのないチンパンジーばかりを対象にしてきた。餌付けの試みは研究の当初からずっと続けていたが、彼らの反応はかたくななばかりにネガティブだった。（マハレの）カソゲでは餌付けの試みが実を結ぶかもしれないというのが、伊沢君の報告であり、それに対して全力投球をやった西田君が翌1966年の夏に、ついにそれに成功したのだった（第17回参照）」（「チンパンジー記序説」）
最後に、カサカティ基地でともに過ごしたアフリカ人スタッフの写真を紹介しましょう。なお、カサカティ基地はこの写真の３年後、1967年に伊沢さんによって閉じられます。
1964年３月14日、「素晴らしきかなこの友（Bwana Itani帰国の途へ）」
（以下、次号）
編集・執筆：高畑由起夫
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