第18回 「マハレでの餌付けの成功」
1965年10月12日、カソゲに到着したばかりの西田利貞さんは、湖岸のカシハ村から山に向かう道中で幸先よくチンパンジーに出遭い、17分ほど観察できました（『精霊の子供たち』17頁）。そして、「誰も使っていないから、お前がシャンバ（畑）にしてもよい」と言われた場所に、餌づけ用のサトウキビ畑を切り拓らくことになります。
左は『精霊の子供たち』（西田、1973）掲載のカンシアナ・キャンプ周辺の地図に手をいれました。また、右の写真は伊谷コレクションから「1966年のKasoge」関係をピックアップしました。上の２枚の写真の背景にマハレ山塊（最高峰ンクングェは標高2462m；湖面は標高約773m［年によって変動します］）が写っています。下はアブラヤシに囲まれた当時の集落と、浜にあげられたボート
以下、地名がたくさん出てくるので、混乱しないように整理しましょう。まず、“マハレ”ですが、タンガニイカ湖東岸から西に突出したマハレ半島を示します。現在は半島の大半がマハレ山塊国立公園に指定されています。なお、マハレ（Mahale）という地名は、西田さんの論文だと1970年代中頃までMahaliと表記されていますが（例えば、Nishida、1976）、その後、Mahaleに変更されました（Nishida, 1979）。
次に、“カソゲ”はそのマハレの一部、最高峰ンクングウェの西麓で半島の突端部のあたりの地域をさします。そのなかで、“カシハ谷”がつくった扇状地の湖岸に、カシハの集落がありました（左上の地図参照）。その集落からさらに“カンシアナ谷”にそって１kmほどのぼった山裾に西田さんが餌付け用の畑を拓き、やがて“カンシアナ・キャンプ”を設けます。後でわかることですが、このキャンプ周辺は二つのチンパンジー単位集団（ＫグループとＭグループ）の遊動域が重複しており、彼らの社会構造を調べるにはまことにふさわしい場所でした。なお、このカソゲ（Kasoge）という表記も、英語論文ではMahaleとほぼ同時期にKasojeという記載が一般的になりました。もっとも、日本文では“カソゲ”が現在でも使われことが多く、このバーチャル展示もカソゲで統一しています。そのあたりはご注意下さい。
伊沢さんが「カサカティが“ヨコ”ならば、カソゲは“タテ”」と評したように、湖岸からンクングェの頂上まで、植生の垂直分布が見られます（下図）。もっとも、チンパンジーの観察は湖岸〜山裾に広がるカソゲ・フォレスト（下図ではBrachystegia疎開林）とその周辺が中心です。
タンガニイカ湖岸からンクングェまでの植生の垂直分布
さて、サトウキビの畑づくりは進んだものの、チンパンジーはなかなか餌付きません。それどころか、カボゴで東・豊嶋（西邨）さんが翻弄されたように、彼らの融通無碍な出没ぶりに西田さんは戸惑います。「12月27日（略）私は村人から多くのニュースを得た。いずれも朝早くカシハにやってきた村人が、それぞれの部落を出るときにチンパンジーの声を聞いてきたのである。カンシアナ谷、カシハ谷、（略）ンガンジャ、いずれも早朝にチンパンジーは鳴いたのである。どの谷でも村人は口を合わせたように、「ソコ・ニンギー・カビサ（チンパンジーはいっぱいいる）」と言った。そうするとカンシアナからンガンジャまで７kmの距離に切れ目なくチンパンジーの集団が分布していることになる。こんなことがあっていいのだろうか」「結局、私はどれでもよいから一つの集団の輪郭をはっきりつかまないと、どんなことも結論できないと悟らざるを得なかった」（『精霊の子供たち』54-55頁）。この「こんなことがあっていいのだろうか」というフィールドでの戸惑いこそが、次の段階へのブレークスルーのきっかけであり、それを掴むことがフィールドでの醍醐味です。
左は西田さんが調査を開始した頃のカンシアナ・キャンプ、右は餌場に出てきたチンパンジーたち（画像はマハレ野生動物保護協会［MWCS］のサイトから）
そうこうしていると年明け早々、伊沢さんから西田さんに連絡がありました。伊谷先生から「伊沢、加納は来年（67年）３月まで調査をし、西田は今年（66年）６月に帰国せよ」という指示がきたというのです。伊沢さんの提案で、西田・加納・伊沢は急遽キゴマで隊員会議を開き、３人とも来年３月までの滞在できるよう、伊谷先生に手紙を書きました。この会議について伊沢さんは「私たち３人は、この努力を続けていけば、いずれ自分のフィールドでチンパンジーをならすことができるだろうと各々が明るい見通しをもっていた。またこの努力を続けてゆくことによって、三つのフィールドのうちすくなくとも１ヵ所では、絶対に成功するだろうと自信をもって伊谷さん宛の手紙に書くこともできた。３人で夜明け近くまで語り合ったキゴマのホテルの一室を私は忘れることはけっしてないだろう」と書き残しています。
また、伊沢さんは会議で「互いにびっくりしあった一つの一致点があった。それは三人がそれぞれのフィールドで、人づけ、餌づけ、サルづけの努力を続けているその中から、必然的に出てきた野生チンパンジーへの接し方であった。それはこれまでのチンパンジーとの出遭いの回数や観察時間の多さに対する執着を捨てることだった」「チンパンジーを見るよりも、いかにチンパンジーに私たちの存在が無害であるかということを見せるといった、みのりの少ない地道な方法の選択だった」とも付け加えています（伊沢、1977「カサカティ盆地のチンパンジー（�供法�242-243頁）
1966年当時のカソゲの集落と人々の祭りの様子（伊谷コレクションから）。こうした光景は1970年代にはタンザニア政府による集村（Ujamaa village）計画の進行で、姿を消します
会議が終わってカソゲに戻っても、事態はなかなか好転しません（いまから振り返れば、果実の季節性から、チンパンジーが分散しがちな時期に入っていたわけですが）。西田さんは活路を求めてカシハを離れ、南のルブルング川近くのンガンジャ地域で仮小屋を設けて観察していますが、３月には逆にカンシアナで畑が荒らされていると知らされます。３月17日にカンシアナに戻ると、初めて畑のサトウキビが食べられるのを目撃します。
それでも、チンパンジーに振り回される日々が続いていた５月29日、畑に行くと「すでに５頭のチンパンジーがやってきていた」。どうやら長く居座り続けている気配に、「私はとりあえず、個体に番号をつけて、記録することにした。①は、目と鼻と口が顔の中央に集まっているように見える寸の詰まった顔のオスであった」、「②は、腰に赤ん坊をのせた大型のメスであった。顔はやや白っぽく、むしろ高齢なのだろう」とようやくチンパンジーを長時間観察する機会を得ます。
そして、次の日、再び畑にあらわれたチンパンジーを見て、「私は昨日見たチンパンジーの顔を覚えていることに気づいた」「昨日の長い観察によって、顔だけでなく、体全体の特徴、その姿勢や動作の個性が醸し出す雰囲気というものを、知らぬうちに覚えてしまっていたのだ」（『精霊の子供たち』94-97頁）。まさに、幸島での餌付け初期の伊谷先生たちの体験をなぞっているかのようです（第２回参照）。
1966年当時のカンシアナ・キャンプの餌場でのチンパンジーたち（伊谷コレクションより）
「もう名前をつけてもいいのだ。私は、アフリカ人が私につけた三つのあだ名を、まずチンパンジーに進呈することに決めた」。こうして前日④としたオスは、この集団のＫグループという名称のもととなった“カジャバラ”と名付けられます。これは「ク・ジャータ（歩く）」という動詞の派生語で、「よく歩く人」という意味だそうです。年齢は高そうですが、小柄で気の弱そうなオスには“カメマンフ”＝「ク・メマ・シフ（火をつける）」という、さしずめ「放火魔」という名前を与えます。こうして付けた彼らの名前は、カジャバラに由来するＫグループという名称とともに、日本の霊長類研究史に残ることになります（ただし、今回あらためて論文をチェックすると、西田さんは初期の報告であるNishida（1968、1970）ではいずれも個体名を使わず、M1〜M7等と記載していました。Kawanaka and Nishida（1975）ではフルスペルですが、Nishida et al.（1979）あたりからアルファベット２文字での表記が一般化します。このあたり、名前の表記もなかなか微妙です）。
オスたち：左からカソンタ、カサンガ、カメマンフ、ソボンゴ（伊谷コレクション）
とは言え、わからないことばかりです。はたしてどのオスが最優位か？ 伊谷先生は高崎山で優劣交渉を積み上げて順位構造をあきらかにしますが（第５回参照）、チンパンジーは判断がつきません。「私はこのオス（カサグラ）に注目した。しかし、彼はまったく攻撃的な行動をせず、はたして他のオスより順位が高いのかわからなかった」。その結果、ニホンザルのようなリーダーはいないのか？ とも戸惑います。
さらに、今西錦司が前人類の社会の基本単位として想定した類家族（ファミロイド）、一頭のおとなのオスと一頭あるいは複数のオトナのメスと、成熟しきっていない彼らの子供からなる社会単位もどうやら存在しないことがわかってきました。その一方で、餌場に現れる個体をいくら数えても、５月の段階で14頭にしかならない（最終的に22頭）。それなのに、イロンボの果季には40〜60頭ぐらいのチンパンジーが餌場近くにいたはずですで、そのことにも戸惑います（これは隣接するＭ［ミミキレ］グループなのですが）。
やがて８月下旬、伊谷先生がキゴマに来訪、隊員会議が開かれることとなり、西田さんはリエンバでキゴマ港へ、日本から着いたばかりで色白の伊谷先生は港まで出迎えに来ていました。『精霊の子供たち』では西田さんは甲板から先生に、「餌付けは成功しましたよ」と叫んだと書かれていますが、西田（2008）にはもう少し劇的場面が付け加えられています。「1966年の夏伊谷さんがやってきました。（略）波止場にいる伊谷さんの姿を観てすぐ、船の上から「ファミロイドなんてありませんよ！」と大声で言ったんです。そしたら即座に「そんなことはないだろ！」と怒鳴り返されました」。伊谷先生はこの時、今西さん的な認識からの脱却を迫られたのかもしれません。
隊員会議でカソゲでの餌付け成功が確認され、カソゲとカサカティでは調査を続行すること、フィラバンガ基地は撤収し、加納さんは西タンザニア全域のチンパンジーの分布調査をやることが決まります。とは言え、伊谷先生にはさらにその先の構想にまだ迷っているところがあったようです。リエンバでカソゲに帰る西田さんと別れてから、８月28日のノートに「私はそろそろ決心をかためはじめる。伊沢はここ（カサカティ）に1968年３月まで、少なくともいさせることを、そして、Kasogeは鈴木（晃）に継がせる。加納は分布調査のあと、３月（1967年）に帰らせる。西田の交代は1967年５月になるだろう」と書かれています。
しかしながら、皆さんもご存じの通り、現実はこの通りには展開しませんでした。この年の12月、分布調査中の加納さんは虫垂炎を発症、伊沢さんにともなわれてダル・エス・サラームで手術を受け、年末に全快。67年１月に二人は調査を再開しますが、時間はあまり残されてはおらず、二人とも67年６月に帰国の途につきます。西田さんもそれより前の67年３月にいったん帰国しますが、すぐに７月にカソゲに戻って調査を再開、以後、カソゲでの長期調査を采配することになります。鈴木さんは、杉山幸丸さんがウガンダのブドンゴの森で66年９月〜67年３月までおこなった調査を引き継ぐため、67年５月にブドンゴに赴きます（『チンパンジー記』710-711頁）。
さて、伊谷先生はカサカティを経て、加納さんとフィラバンガを撤収後、長途、内陸部からタンガニイカ湖畔まで踏破、カソゲを初めて訪れます。キゴマの会議から１カ月後、待ちくたびれた西田さんの小屋を訪ねるシーンが以下のノートに記されていました。
1966年９月27日夜にカンシアナ・キャンプを訪問、西田さんと再会
まず左頁ですが、この記述は伊谷先生が、西田さんがンガンジャに設けていた仮小屋を、カンシアナ・キャンプと間違えていたことに気づいて、すでに暗くなった道を急遽、カンシアナに向かって北上するシーンで始まります。
「R. Lubulungu（ルブルング川）だ。雲があって月はないが、うす明るいので、トーチなしにとばす。こんなところに、こんな開けた土地があろうとは思ってもみなかった（ルブルング川河口部の扇状地と思われます）。Kungwe（Nkungwe；最高峰）が見える。いくつも森を抜け、いくつもshamba（畑）を抜け、いくつもの家の前を通り抜けて、最後の谷（カンシアナ谷）をつめて、8:25 p.m.ついに西田の小屋の前で“Hodi（入ってもよいか）”と言った。“Karibu（どうぞ）”と中から声あり。「一人だけですが、ずいぶん待ちました。毎日毎日待ちくたびれました」と言う。私のために新しい家を建て、新しいbedを作り、新しいmkeka（茣蓙）を買って待ってくれていた。（キゴマの会議後に別れてからの）30日間のことを話し合う」と続きます。
右頁には「ジンを飲み、その後の様子等聞きながら、昨日殺したというMbuji（ヤギ）のシチュー、ひさしぶりに生の玉ネギとイモの入ったシチューをすする。使用人がどんどんやって来る。Jumanneも来る。そしてpombe moshi（自家製の蒸留酒）を買ってくる。１時半まで飲んだ。近頃、Soko（チンパンジー）は常連（Ｋグループ）が来ない。別（Ｍグループ）のが来て、通り過ぎるという。トーチを灯して、彼の丹精の餌場とよく茂ったミューワ（サトウキビ）の畑を見に行った」
なお、翌日のノートには、この時、今後のカソゲの運営にも話が及び、西田さんに「ここまでやったのだから、なんとかもう１年続けられないか」と勧めたこと等が記されています。この時には決定とまでに至らなかったようですが、西田さんの意向を聞き、カソゲ基地での運営を見て、西田さんによるカソゲ基地運営の継続という決心を固めたのではないかと思われます。
例えば、９月28日のノートには「西田はここでの使用人の処偶（？）、きわめて合理主義に徹してやっている。善悪、合理、非合理の判断で、徹底的に判断しているところは見事だ。結局、この村でもっとも素朴で、純情で、正直なのは私（西田）だということがわかりました、と彼は言う。そうだろう」と評価します。この時から（それは西田さんにとっても予想しなかったことですが）、伊谷先生は新しい体制＝自らは研究全体の流れを俯瞰しながら、Extensive surveyをメインにして、それぞれの研究をプロモートしていく。各フィールドはそこに精通した者（＝原子令三さんの表現を借りれば、“一国一城”の主）に、Intensive surveyの差配を任せる、というスタイルを選んだのかもしれません。
その翌日、伊谷先生は西田利貞さんとともに２日がかりでンクングェにのぼります。これはンクングウェにとっては４度目の登頂になります。
ンクングェ登山中のスナップ写真（伊谷コレクションから。西田さんが写っています）
そして、下山した翌日、伊谷先生は餌場で待望のチンパンジーに出会います。
（以下、次号）
編集・執筆：高畑由起夫
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