第19回 「マハレの調査から浮かび上がったことなど」

 ンクングェ登頂からカンシアナ・キャンプに戻った翌日の10月1日、伊谷先生は午前6時からチンパンジーの声を聞いて、一人起き出します。午前6:43、餌場で「mother-baby one pair 木を飛び降りる。そしてそれに続いてinfant1匹木をおりる」と、ついに待望の餌付けされたチンパンジーがあらわれます。この日のノートは走り書きで、文字起こしが難しいのですが、もっとも読みやすそうな2頁分を下に書き起こします。

1966年10月1日、カンシアナの餌場に現れたチンパンジーたち

「(午前7:27過ぎ、4才くらいのたぶん若いオスが)おそるおそるそっと来て、バナナを4〜5本とってfeed。右手にて<ワオ・ワオ・ワオ・・・・・>急ピッチ大きな声あり。Youngスジ(前の頁で観察した若いメス)の子らしいの、これを第5の個体とする。第5(の個体)バナナを持って左に去る。7.30 左の方で、<ケ・ケ・ケ>。右で木を降りる音。7.32 右手にて<フォフォ・フォ・フォ・フォ・フィーア・フィーオ・フィーオ・オ・オ・オ・オ>あり、木の上。7.33 低い<フィ・フィ・フィ・フィ>つぶやき、左手にあり、右手にも<ア・ア・ア・ア・ア>極めて低い。さっきの第5の個体は4〜5才か、顔のっぺり。<フォ・フォ・フォ・フィー・フォ・フォ・フィー・・・・・>の合唱 右<ウワォ・ウワォ・・・>中奥、3〜4匹。<ウー・ウー・ウォー・ウォー・フォ・フォ・グォ・・・>右手奥にてあり。中央奥も呼び交わす。<ワー・ワー・ワー><ワン><ワー→ワー>の合唱。7.35 <ワー・ワー・ワー>強く、右手。7.37 <フォッ・フォッ・フォッ・フォッ>ひくと。7.38 Kajabara big male and キズあり、右手。Wakatsunga*Wakasunga?)est♀(発情メス)でる。KabobaKaguba?)、Kabola(?)、KatontoKasonta?)すべてオス。2 pair M.b. (Mother and baby)+j.+Est♀+leader♂+3ad♂。7.49 M.b. 新しいの奥にでる。Inf.を背負っている。7.51 このM.b.と新しいM.b.、前者がまず右手で後者の頭を」
 :チンパンジーの名前は、Kajabara(カジャバラ)は正しいスペルですが、“Wakatsunga”はおそらくワカスンガで、微妙に異なります。“Katonto”はオスなので、カソンタかもしれません。この時点はまだ、西田さんが前日の登山の疲労のためか、まだ起きてこないので、その場にいたRamadhaniから耳で聞いた名前をそのまま書き込んだためかもしれません。

 こうしてマハレでは「西田君による個体識別をし命名をしての研究が進み、私たちの最大の課題であるチンパンジーの単位集団の存在が立証されるに至った」のを目の当りにします(『サル・ヒト・アフリカ』72頁)。それでは、具体的に何がわかったのか?

 まず大きな成果は、前年のフィラバンガでの行列の観察で示唆された(第16回)、内部で“離合集散”するけれどメンバーの輪郭が明確な集団の存在です。下左図は1966年7月31日〜8月3日間の離合集散の例です。こうした変幻きわまりない離合集散は、かつてカゴボで東・豊嶋(西邨)さんらを翻弄したわけですが、こうした一時的な小集団をsub-groupあるいはpartyと呼びます。

 一方で、そうした小集団の構成に法則性は見つかりません。西田さんがキゴマの埠頭で船上から伊谷さんに叫んだように、今西さんが予期していた類家族(ファミロイド;集団内に内在する家族的組合せ)は存在しなかったのです。

左:Kグループの離合集散の例(原図はNishida 1968)、右:離合集散での“核”=オトナオスの集団(第16回のフィラバンガでの行列の図の中ほどの、オトナオスの集団を思い浮かべて下さい)。咆哮する2頭はカソンタ(左)とカメマンフ(右)

 さて、こうした個体を毎日チェックしていくと、ある程度の個体数で頭打ちになりました。左上図のKグループでは、22頭(オトナオス6頭、オトナメス7頭、ワカモノとコドモ4頭、アカンボウ5頭)から増えません。西田さんは、この離合集散しながら、どうやら輪郭がはっきりしているように思われる集団を、単位集団Unit group)と呼ぶことにしました。

 なお、このチンパンジーの集団の呼称について、霊長類学者のドゥ・ヴァール博士は「静かな侵入:今西霊長類学と科学における文化的偏見」(2006;英文は2003)で、「チンパンジー研究の初期、欧米研究者には集団が存在しないように見えた。しかし、日本人研究者は「チンパンジーは、西洋科学がそうあるべきだとしたほど<個人主義的>ではないだろう」との確信から、離合集散する単位集団(Nishida、1968)を見出した。すると欧米の研究者はほどなく“unit-group”を“community”と言い換えた。この結果、チンパンジーの社会構造の発見があいまいになった」と、このテーマに関する欧米研究者の対応が必ずしも公正とは言い難い面があったことを指摘しています。

 さて、離合集散はまた、個体同士の挨拶行動を発達させます。つまり、“出会い”のつどに互いの社会的関係を確かめ合う必要があるかもしれません(「男子三日会わざれば刮目してみよ」[呂蒙]さながらです。もちろん、“男子”だけではなく、“女子”も“コドモ”も絶えず“刮目”しているわけですが)。また、餌付けに使われたサトウキビや、他の哺乳類等を“捕食/肉食”する際の肉等、どのチンパンジーからみても“価値”が高い食物をめぐって、持たざる者が持つ者に“物乞い”し、持つ者が“分配”するなど、微妙なやりとり/かけひきがあることにも気付きます。こうした優劣がはっきりしていながら、様々な挨拶/宥和行動や物乞い=分配が見られることは、伊谷先生にとって「人間平等起原論」での“条件的平等性”の概念のヒントになります(第30回参照)

左「高順位個体に腕を差し出す挨拶。差し出した個体(チャウシク)の顔や姿勢はあきらかに緊張状態にあることを示し、劣位を示す“泣き面(グリメス)”で顔がゆがみます。右「物乞いの行動。食物をもっている順位の高い個体に対し、泣き面をして掌を差し出す。ニホンザルではけっして見ることのできない分配がみられることがある」

 それでは、集団同士はどんな関係か? 西田さんが根拠地としたカンシアナ・キャンプは幸運にも二つのグループの遊動域が重複している場所でした。Kグループの隣接集団Mグループもやがて餌付けされ、個体識別が進み、M(ミミキレ)グループと名付けられますが、集団サイズはKグループよりも大きいこともわかります。カンシアナの餌場をめぐる動きでは、頭数が多いMグループ>小型のKグループという優劣関係が示唆されました(下左図)。西田さんはまた、トングウェ名がカソリオ(Garcinia huillensis)というフクギ科の果実(マンゴスチンと同属)のシーズンに周辺の集団の動きを追って、それぞれ独自の遊動域を利用していることを明らかにしました(下右図;B、P、K、M、N、Lは各グループの頭文字)。

 つまり、単位集団同士は互いに拮抗的であること、そして遊動域が重複する場合、集団サイズ等の差で優劣関係が存在することなどが示唆されました。伊谷先生は後に人間家族の発生と進化に関する論究で、「霊長類の社会構造の顕著な特性の一つは、BSU(基本的社会単位)相互間の対立性、つまり地域社会の形成にほとんど進歩がみられないという点にある」と論じたように(伊谷、1986「家族の発生と進化(2)」)、マハレでのデータはチンパンジーの単位集団同士が意外なほど敵対的であり、集団間の“コミュニティ”(この場合は、生態学のいう“群集”ではなく、人類学がいう“共同体=地域社会”)が形成されそうにないと結論せざるをえませんでした。もっとも、その後、ワンバのボノボ(ピグミーチンパンジー)では隣接集団間の平和的な交わりが少なからず観察していることを知り、そこに一つの道筋を見ようとしているようでしたが、深い議論にまで掘り下げるには至らなかったようです(伊谷、1990「霊長類社会における男女」。

左:隣接するKグループとMグループは餌場周辺をめぐって、反撥的な関係にあり、大型のMグループが接近するとKグループは避けるように移動します。右:カソリオ(彼らの好物である果物)が実る季節には、KとMも含めた6集団が、互いに異なる地域を遊動しています(西田、1977)

 こうしてチンパンジーの基本的社会単位(Basic Social Unit; BSU)について、“共時的な”イメージがまとまってきます。とは言え、それではオス・メスは成長とともにどのように振る舞うか、どちらの性が集団を去る/とどまるか=1970年代以降に伊谷先生が重視した“通時的構造”の判断はまだ霧の中で、その点に関しては次回以降に持ち越しです。

 さて、話をトングウェ・ランドでのチンパンジー研究に戻すと、マハレでの餌付け成功後、フィラバンガではチンパンジーの季節的移動が大きいこと等から、加納さんはチンパンジーの分布調査に転じます。また、カサカティ基地は先ほども述べたように伊沢さんによって閉じられます。こうして1960年代末にはタンガニイカ湖東岸での研究はマハレに集中することとなり、研究体制は大きな節目を迎えます。

 マハレでは現在に至るまで研究が続けられていますが(“Mahale Chimpanzees: 50 Years of Research”Nakamura M et al., 2015等参照)、最後にマハレ山塊国立公園にも触れましょう。伊谷先生はこの地域の自然保護についても心を砕きました。1970年代、タンザニア国立公園公社総裁で、ジェーン・グドール氏の夫でもあった故ディレック・ブライソン氏からの助言を受けながら、JICA(当時は国際協力事業団、現国際協力機構)等からの支援で国立公園指定に向けての活動を始めます。その結果、「1985年初夏、マハレ山塊国立公園指定の吉報が届いた。西田君らと続けてきた努力の結果だった。山塊を覆う1、600km²で、その自然と数百頭のチンパンジーの保護は法によって約束された」(『サル・ヒト・アフリカ』84頁)。下は国立公園に先だちJICAから1979年に派遣された調査隊によるマスタープラン報告書ならびに掲載された図や、調査隊そして日本の援助で建てられたオフィスの写真です。

左より報告書表紙、国立公園全体図、Research stationの活動予想図


左:1979年のJICAによる調査隊によるンクングェ登山、右:1980年にJICAの支援で建てられたオフィスです。背景にンクングェがそびえています

 現在は、Mahale Mountains National Parkとして、タンザニア国立公園公社(Tanzania National Parks)によって管理されています(https://www.tanzaniaparks.go.tz/national_parks/mahale-mountains-national-park)。また、チンパンジー研究者を中心に“マハレ野生動物保護協会”が組織され、各種の活動をおこなっています(https://mahale.main.jp/)。ご関心がある方はぜひ、ご覧下さい。

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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