第4回「間奏:研究と仲間たち、そして旅と研究の日々」
今回は“間奏”としてこぼれ話です(研究者間のネットワークや、フィールドでの生活等;なお、本回は敬称をすべて略します)。それでは、まず、これまで登場された方も含めて、研究者同士の関係を整理しましょう。
今西錦司は長年、京都大学で無給講師に甘んじていましたが、逆に、正規教員でないからこそプロジェクトごとに多様な人材を集め、ネットワークを創りあげてきました。第0世代(同期)は西堀栄三郎・桑原武夫らの登山仲間が、第1世代は昆虫学を介した可児藤吉・森下正明らが、第2世代は大興安嶺等の探検を介した中尾佐助・梅棹忠夫らです。
伊谷は川村と戦後の第3世代として連なります。1951年結成の霊長類研究グループがこの世代のコアでした。なお、この図に漏れた方も多くいらっしゃいますが、スペースの関係でお許し下さい。
その後、今西から発したネットワークは大きく二つの流れ、(1)日本モンキーセンターから自然人類学研究室等を中心とした霊長類学、(2)1961年開始の「京都大学アフリカ類人猿学術調査隊」に始まる社会・文化人類学に発展します。そして、やがて生態人類学も萌芽することになります。
それでは、初期の霊長類研究メンバーの写真です。
左の写真は今西錦司を中心に、川村(左)と伊谷(右)、そして徳田(奥)。彼らは1924〜1928年生まれで、生態学講座の宮地伝三郎教授の院生として、今西のもとで動物社会学を志します(撮影は1950年、場所は都井岬の茶屋の庭)。中央の写真は1950年、高崎山で調査を始めた頃の伊谷。右は高崎山での調査後、大崩山(おおくえやま)に登った時に川村が撮影した今西と伊谷。高崎山での調査後、3人は祖母山と傾山に登りますが、そこで毒草のバイケイソウで中毒。翌日は焚き火で伊谷のリュックや靴が焼けてしまいます。
この時期、伊谷たちはフィールドを求めて旅に出ます。下は「彌次喜多道中記」(1952年6月)の見開き2ページですが、とくに「無一文」と「原稿用紙」の言葉が印象的です。
(左)「さらば」(無一文)、「お気をつけて」、「また逢う日まで!」(右)「どこまでつづく」、「敵は幾万ありとても」
(左)伊谷コレクションには、旅での出納簿も残されていました(1951年3月16日〜23日;高崎山での第4回調査)。また、(右)は当時、旅費等でご支援いただいた渋沢敬三氏(元大蔵大臣・日銀総裁、渋沢栄一の孫)
出納簿のこのページでは、大分到着後、電車賃(1972年廃線の大分交通別大線か)29円、葉書20円、速達28円、タバコ60円、風呂5円、昼食50円、計192円を使い、20日〜22日に山に入り、23日に今西錦司を出迎えに大分に出たと記されています。
伊谷は「戦後の経済的に疲弊しきった時代でしたが、双眼鏡と野帳さえあれば、そして旅費さえ手に入れることができれば、調査を進めることができました。東北地方や九州行きの旅費を渋沢敬三先生にいただいたことを思い出します。当時、日銀の総裁をなさっていた頃と思いますが、よくも乞食のような学生のスポンサーになってくださったものだと、このことは忘れることができません」と振り返っています(「サル学事始めの頃と今日の課題」)。
1948〜52年にかけては旅が続いた研究生活でしたが、長期フィールド調査体制を初めて確立できたのは宮崎県の幸島です。島には漁師の磯崎正富さん一家4名が住んでいるだけで、海を渡るのも大変でした。
(左)幸島の全景。市木の泌(タギリ)の海岸から約400〜500mにあるが、潮の流れが早い。(右)伝馬(船)で渡る。左が徳田、中央が今西、その後ろが川村、右が河合雅雄。
伊谷は「これまでの調査は、いつも海のために悩まされた。しけの海に飛び込んで、危ない目にあったのも、2度や3度ではなかった」と振り返ります。『彌次喜多道中』にも、そのような“危ない目”を描いた戯画が残されています。
(左)「チクタクチクタク」「買ったばかりの時計故に!!!!」「エライコッチャ」、 (右)「九州本土」、「幸島」、「意志」、「?南洋諸島?」、「流速」、「こげな泳ぎ 見たあことあ ないとよ」、「プン」
幸島では、はじめはテントをもちこみ、やがて宮崎県と市来村(現串間市)に小さな研究所を立てていただくことで、研究者が島に留まれることで研究も軌道にのります。
(左)海側から見た磯崎さんの家、(中)山側から見たスケッチ、(下)大泊の浜にあらわれた当時の幸島群(『幸島のサル』から)
(以下、次号)
編集・執筆:高畑由起夫
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