第5回「高崎山での充実した3年間:オスたちの優劣と“二重同心円モデル”」
1953年、伊谷先生はフィールドを高崎山に移します。「(幸島での成功後)高崎山のサルも1952年11月に、市長上田保氏、万寿寺別院の和尚大西眞応氏によって餌づけられた。私は生態的見地からのアドヴァイザーとして1953年の春に着任した。ここでも私は、一頭一頭を識別し、命名していった。ジュピター、タイタン、バッカス、シャラク等。私は丸3年間この任にありながら、200頭を越すサルたちの観察を進めた。毎日が新しい発見の連続だった」(『サル・ヒト・アフリカ』p.47)
「写真は餌場に出た群れの中心部。幸島の群れが約20頭の小群なのに対し、高崎山の群れはその10倍の200頭の大きな群れだった」
下のノートは着任した直後の1953年4月21日、左頁中央に「個体識別が出来てないので、いたし方ない。何もできない。早く個体のdiscriminationをやらねばならない」(赤い点線で囲った部分)と記してから、識別記録をまとめ始めます。
1953年4月21日、オスの個体識別を整理
まず注目したオスは仮称“L0”または“Makio”、後の“Titan(タイタン)”(青い点線で囲んだ箇所)。もっとも、この日はこの個体を“L2/Hisasi”とも名付けていたようで、識別はまだ不安定です。とは言え、群れ外オスで左耳が欠損している“ミミナシ”や、後に“ボス見習い4位”とされた右目が白内障の“ウゼン”(丹下左膳のもじり)等は明確に識別できました。
そして、緑色の点線の箇所は、後年には銅像にもなった初代αオス(ボス)の“ジュピター(Jupiter)”で、この日は“L1/Mikazuki”と呼ばれています。αオスの期間は1952年から死亡した1961年まで(9年はやはり長いですね)。なお、銅像は巨匠朝倉文雄作とのこと(大分県のご出身だったようです)。
左上:第1位のαオス、ジュピター(1954年冬)、右上:第2代目のαオスのタイタン(1961)、左下:餌付け当時の第4位バッカス、右下:離れオスのミミナシ
次は、優劣の把握です。4日後の4月25日のノートは、Case 76として「午前10:55に“L1”が“L0”を攻撃し、L1>L0と判断した」とあります(赤い点線内)。こうして高崎山群初代ボス、ジュピターが識別されました。
1953年4月25日のノート。赤い点線内に、L1>L0と記されています
4月30日の昼食休憩中には、ノートに上位オス7頭間の優劣関係を描いています。なお、図中に「L0=L4=L2」という後からの書き込みがあります。前後の文章から判断すると、どうやらL2がL0と同一と気づいたものの、30日の時点でL4とL0をまだ混同していたようです(図に書き込まれたL4の記述がその後抹消されています)。文字通り、試行錯誤です。そして、いったん記載されたL1〜L9等の名前に、たぶん後から青色のインクでジュピター等の固有名が書き加えられたものと思われます。
1953年4月30日の昼食休憩中に描かれた8頭(実際は7頭)のオスの優劣関係
最終的に伊谷先生が認めた上位(『高崎山のサル』で“ボス(リーダー)”と呼ばれた)のオスは6頭、ジュピター>タイタン>パン>バッカス>モンク>ブアという直線的順位が浮かび上がります。
こうした順位構造や餌場での空間配置から、『高崎山のサル』(1954)の末尾には「群れの社会構造」として下図が掲載され、後に「二重同心円構造」モデルとして有名になります。
ところで、1960年代以降、野生群での観察が進むと、自然状態ではこうした構造は認められないとの批判が若い研究者たちから寄せられます。これは人間が与える餌の集中という特殊な条件下でのみ成立する人為的な現象だというわけです。
そこで、『高崎山のサル』を再読すると、実は「二重同心円」に該当する言葉がありません。かつ、「これは便宜的な、理解しやすいために作った模式図に過ぎない。群れの実際の構造は、いままで述べてきたすべての彼らの生態やその社会秩序、もちろんまだまだ書き足りない点が多いのであるが、総合されたものであって、とうてい一枚の図に示せるようなものではない」(291-292頁)と断っています。どうやら、この慎重な記述にもかかわらず、この図が読者に与えたインパクトは、何時の間にか「二重同心円」を「定説」化し、「典型例」として権威付け・一般化することで、世間に流布した気配があります。
もっとも、伊谷先生自身が後で気づいたように、この図にはほかに致命的欠陥がありました。それは“オスの生活史”に関するイメージです。この図では、オスはアカンボウ〜コドモ期を群れの中心部で過ごした後、いったん周縁部に動き、やがて成長するにつれて中心部に戻ってくるように読み取れます。つまり、オスの人生は生まれた群れ(出自群)で完結する一方、ヒトリザル(ハナレザル)は群れをかすめるだけで、移入/移籍はないこと等を示唆しています。ところが、各地で研究が進むと、ほとんどすべてのオスは性成熟前後に生まれた出自群を離れ、やがて他群に移籍することが判明しました(下図参照)。
嵐山A群・B群で観察されたオスの成長にともなう移動(乗越、1974)
つまり、通時的視点で見れば、ニホンザルの群れは、オスを介して他群とつながる「半閉鎖系」的構造です。その一方で、オスは一つの群れに長く滞在するわけでもありません(屋久島だと3年ほど)。そうなると、ニホンザルの群れは基本的に、一生をそこで過ごすメスたちが血縁関係で結びついた「母系的社会構造」で維持されているとも見なせます(なお、初期の研究で、オスの移籍を見落とされがちだったのは、幸島が離島で孤立群だったこと、高崎山群も巨大で、かつ他群と隣接していなかったこと等が背景にありそうです)。
一方で、伊谷先生は1970〜80年代にオスの移籍の資料が増えると、逆にその点に注目、通時的構造という視点からニホンザルの“母系”と、チンパンジーの“父系”を対比させ、『霊長類の社会構造』および『霊長類社会の進化』にまとめます。そのあたりはまた後ほど取り上げます。
(以下、次号)
編集・執筆:高畑由起夫
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