第7回 「研究機関の整備:日本モンキーセンター立ち上げの日々」

 伊谷先生は調査・執筆のかたわら、様々な研究機関設立にかかわります。それも産学共同機関(モンキーセンター)から、研究者養成コースを持つ講座(自然人類学・人類進化論)、共同利用・地域研究機関(霊長類研究所、アフリカ地域研究センター)、公立博物館(兵庫県立自然系博物館設立準備室)等、様々。今回扱うのはその原点、モンキーセンターです。

 「(ニホンザルの)研究は急ピッチで進んだが、新しい分野であり、大学に研究の場を求めることはできなかった。財団法人の研究所を設立しようという構想がもちあがり、霊長類研究グループと東大の実験動物研究グループが協力し、名古屋鉄道株式会社がスポンサーになり、愛知県犬山に研究所を創設することになった」(『サル・ヒト・アフリカ』50頁)。設立は1956年10月17日、設立趣意書はhttps://www.j-monkey.jp/about_us/pdf/aim.pdf。初代会長に第4回で紹介した渋沢敬三氏が就きます。

左は「1957年、犬山、官林。動物園予定地にて。中央は名鉄の人」。右は「新工なった日本モンキーセンターの入口正面。左端は広瀬鎮氏、伊谷、左3人は来客」


 ところで、『評伝 今西錦司』(本田靖春、1992)では本音を少し漏らします。「今西さんが財団法人をつくったのは野心がありましてね、こっち(研究者側)に。アフリカをどうしてもやりたいと。最初タイ国と言ってましたけど、だんだんアフリカになってしまいまして、そして、必ずアフリカをやると。

 一人で犬山のね、桑畑と大根畑と松林しかないところで、ここで何がつくれるかと思いましたけど、今西さんに行けといわれてしょうがなく行ったのです。定款づくりから、これは大変な仕事でしたね。6年間そこにいて京都に戻ってくるんですけど、私にとってはその6年間というのは、ほとんど調査もできなかったし、サルの本1冊書いただけで一番業績の少ない時期です」。いま思えば、この慣れないデスクワーク体験こそが、その後、研究機関設立を次々にこなすベースになったのかもしれません。

 こうして設立されたモンキーセンターですが、順調に発展、現在の霊長類種数は50種以上、約700頭にのぼります(https://www.j-monkey.jp/)。

モンキーセンターと飼育されている霊長類


 また、幾多の学術的活動を主催、とくに近年まで国際学術雑誌Primatesを発行していました。1957年の第1巻の2冊は英文要約付の和文誌ですが、1959年発行の第2巻から英語化、今日に至っています。もちろん、そうした活動も犬山に赴任した伊谷・河合両先生が担っていました。

モンキーセンター発行のPrimatesの歴代表紙。左端は創刊号(Vol.1 No.1、1957)の表紙・裏表紙。その右は第38巻4号(1997)、第48巻1号(2007)、および第65巻1号(2024)


 さらに毎年プリマーテス研究会を開催し、1985年の日本霊長類学会発足まで、研究発表大会の役割を担ってきました。現在でも霊長類学、ワイルドライフサイエンス、保全生物学、博物館学、動物園学などの分野からの発表を募集し、学際的な交流の場として機能しています(https://www.j-monkey.jp/research/conference.html)。

(左)1957年頃、初期のプリマーテス研究会。向かって右端は園原太郎氏(心理学)、今西、伊谷、河合が写っています。(右)第7回プリマーテス研究会(1963)、今西は前列左より4人目(円内)、伊谷先生は向かって右端(円内)


 また、創立翌年の1957年から、啓蒙・教育を目的に、霊長類学の魅力を広めるため雑誌「モンキー」を発刊、2016年の創立60周年を記念し、装いも新たに再スタートしています(https://www.j-monkey.jp/publication/monkey/index.html)。

左上は2025年現在の雑誌「モンキー」の表紙。その下は、第3号・第4号に載った伊谷・河合両先生のプロフィール。右は、記念すべき第1号で伊谷先生が執筆した「おサルの教室 ニホンザルの食べもの」の前半の一部です。

 そして、先ほどの「必ずアフリカをやる」という野心通り、1958〜60年に3度、アフリカ類人猿調査隊を送り出し、その後の京都大学アフリカ類人猿学術調査隊(KUAPE)に発展します(その流れはやがて、1964年設立のアフリカ学会や、生態人類学会等にもつながっていきます)。今西はこの企画の理由付けに、現地の動物商や動物園との直接交渉、欧米の動物園の視察、さらに欧米の研究者との交流を挙げますが、調査のターゲットを「やるなら類人猿と、一人で腹を決めていた」(今西、『ゴリラ』50頁)。そして、「なんとなくゴリラの方が、やって面白い、あるいはやりがいがあるように思えて」、野生ゴリラを対象とします。

:この名称ですが、「アフリカ類人猿調査隊」(『ゴリラとピグミーの森』4頁)、「アフリカ類人猿学術調査」(モンキーセンターHP)、「ゴリラ学術調査隊」(『チンパンジー記』705頁)と表記にやや混乱があるようです。ここでは、とりあえず、『ゴリラとピグミーの森』に準拠します。

(左)「1958年2月。財団法人日本モンキーセンター第一次アフリカ類人猿調査隊に今西先生と伊谷が派遣された。この写真は、夕方羽田を発ち、翌朝バンコクの地を踏んだ時のものであろう」。(右)「ローランドゴリラの予察を目的にカメルーンのヤウンデに飛んだ。後々ゴリラ捕獲で悪名をはせることになったアメリカ人の動物商フィリップ・キャロル氏のファームを訪ねた。数頭のゴリラの子と沢山のチンパンジーが飼われていて、欧米の動物園や実験所等に高価で売っていた。写真はビッグマンと名づけられたゴリラの子を抱く今西先生」


 ちなみに、今西は出発前の心境をこう吐露します。「我々にはまた、せっかくニホンザルを相手に年期を入れた、野外研究のテクニックを用いて、今度は日本にいない類人猿の野生の群れを調べに、アフリカまで出かけてみたいという野心が、かなり台頭している。ゴリラやチンパンジーの群れについては、はっきりしたことがまだ何もわかっていない、と言ってもよい状態だからである。しかしこう書き並べてみると、これからやらなければならない仕事があまりにも多すぎて、店を開いたのはよいが、はたしてどこまでもってゆけるか心配である。日本モンキーセンターの今後の発展のため、みなさんのご支持をお願いして筆をおく」(今西、1957「霊長類研究グループの立場」)。

 その“店”を現場で切り盛りする番頭格が伊谷・河合両氏だったわけです。

(以下、次号)

編集・執筆:高畑由起夫


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