第8回 「海外へ:日本モンキーセンター第1次アフリカ類人猿調査隊」
「赤道アフリカにて野生ゴリラの予察調査、海外の霊長類の研究者に会う、研究施設を訪ねる、将来犬山に設立を予定している世界の霊長類動物園建設に向けての資料収集。行く先はケニア、タンガニイカ、ウガンダ、ブルンディ、ルワンダ、ベルギー領コンゴ、コンゴ、カメルーン、そしてフランス、スイス、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、アメリカ」と盛り沢山な目的。
しかし、隊長今西錦司には登山が何より重要。メルー山(タンザニア、キリマンジャロの70km西の成層火山、標高4,562m)とルウェンゾリ山地(ウガンダとコンゴの国境、最高峰スタンレーは標高5,109m)に登りますが、その道すがら、伊谷先生は今西さんの一言半句から“植生の垂直分布”を学びます。
(左上)「メルー主稜に達するとその東は、ほとんど垂直の火口壁で、そのはるか彼方にキリマンジャロが霞んでいた」。(右上)「メルー山の森林限界を登る。この山は乾いているせいかジャイアント・ロベリアやジャイアント・セネシオのゾーンがなく、トゥリーヒース(Philipia sp.)のゾーンを抜けると不毛の砂ばかりとなる」。(左下)「メルー山頂上の今西先生。流石に疲れの色が見える」。(右下)「(ルウェンゾリ山の)ブジュクの南西ストゥールマンズ・パスからのスピークの眺めで、正面のスピーク峰の頂上は霧の中にある。手前の木はジャイアント・セネシオである」
ところで、ゴリラにはどこで会えるのか? 伊谷先生は、雑誌「モンキー」第4号(1958年2月)掲載の「類人猿にいどむ 日本モンキーセンターアフリカ探検計画」で調査候補地に、①ベルギー領コンゴの東端のムフンビロ山、②アルバート国立公園、③イツリ(イトゥリ)の森、④カメルーンのヤウンデ、⑤仏領西アフリカのキンデイナの5箇所を挙げていますが、発行月とほぼ同時にアフリカに旅立つという慌ただしさです。
なお、17カ国が独立した“アフリカの年(Year of Africa)”の1960年の2年前、行先はすべてがまだ植民地で、したがって2人に対応する猟政官も宗主国の白人でした。
アフリカでの調査隊のおよその経路
とは言え、今西錦司の『ゴリラ』の53頁は「ナイロビにつくまでは、どうしてゴリラに接近したらよいのか、まったく作戦の立てようがなかった」とも吐露します。モンキーセンター開設以来の展開はあまりに急で、伊谷先生も振り回される格好だったかもしれません。
しかし、ナイロビで事情は一変します。「(当時、ナイロビ駐在の)林田領事が、コリンドン博物館(現ケニア国立博物館)のリーキー博士を紹介して下さったので、だいぶ事情がわかってきた。(略)ウガンダのゴリラについては、カンパラで狩猟監督官のキンロック少佐から許可を貰ったうえ、キソロでささやかな旅館を営んでいる、バウムガルテルという人のところへゆけば、よいとのこと。早速この二人に依頼状を出した」と続きます。この時、リーキー(Louis Seymour Bazett Leakey;1903〜1972、今西と1歳違い)は54歳、プロコンスルの発掘等で知られていたとは言え、1959年に妻メアリー・リーキーによるジンジャントロプス(パラントロプス)・ボイセイの発掘でスター的脚光を浴びる1年前、グドールをゴンベに送り込む2年前でした(亡くなられた西田利貞さんから、「リーキーは、当時の東アフリカの色んな情報を一身に集約していたような存在だった」とお聞きしたことがあります)。
左は、1962年撮影のリーキー夫妻、向かって左が化石人類の発掘で有名なメアリー・リーキー(写真出典)。中央は、ジンジャントロプス(パラントロプス)・ボイセイの復元頭骨(写真出典)。右は伊谷コレクションに残された当時の絵葉書、ナイロビのデラメア街(もちろん、まだ英領)。
このリーキーとのつながりが2年後の1960年、コンゴ動乱でフィールドに入れなくなった伊谷先生が彼に相談した際に、タンガニイカ湖東岸ですでに一人(グドール)が調査を始めていることを聞き込むことにつながるわけですから、林田領事→リーキー→今西→伊谷→グドールという縁(えにし)のつながりは、(その後の展開を知る我々にとって)感慨深いものがあります。
さて、リーキー博士からの紹介等で、ウガンダではゴリラで観光をめざすバウムガルデル氏、カメルーンでは動物商キャロル氏の世話になりますが、日程の制約もあり、いずれも予察のレベルにとどまります。
左は「ムガヒンガ山で、ゴリラへのアプローチをはかる藤島(泰輔)氏と今西先生」。中央は「ウガンダのあと、ブルンディ、ルワンダを経てベルギー領コンゴのキサンガニにあるウィルス研究所を訪ねた。多くのチンパンジーとボノボを飼育して実験用に用いていた。その飼育施設の前に立つ今西先生」。右「キャロル氏より情報を得、ヤウンデの南の森に入る。途中アボンバンという小さな町の教会で一泊。右は今西先生、中は宣教師の夫人、左は伊谷。朝食の新鮮で多種多様な果物、そして宣教師夫妻の親切が忘れられない」
雑誌「モンキー」に第10・11号(1958年8月)から第30号(1960年4月)まで連載した伊谷先生の「アフリカの動物たち」では、ウガンダのキソロではバウムガルテル氏の手配で、数回にわたって4頭のゴリラと出会いますが、ここでは案内人が課すルールによって追跡することは許されず、文字通りの予察に終わります(バウムガルテル氏のゴリラ観光ビジネスは、エコツーリズムの先駆として興味深いものがあります)。
3人(今西・伊谷・藤島)は、ウガンダとコンゴの国境にルウェンゾリ山地でスピーク峰等に挑みますが、装備不足でやむなく撤退します。上はその一連の写真ですが、説明がついていません。左上の山羊は、食料を仕入れる際に「伊谷や藤島は、私とちがってもはや缶詰文化の影響に、染まっているらしい。黙ってみていたら、棚からいくらでも缶詰を引っ張りだしてくる。それを適当に制して」「ここで私は山へつれてゆく山羊を、一匹手に入れたいのだが、と切り出した。すると、二つ返事でひきうけてくれた」(今西『ゴリラ』)、そのヤギではないかと思われます(伊谷先生に尋ねると、実際には、暴れてなかなか大変だったと笑っていました)。
その後、コンゴを経て、カメルーンのヤウンデを拠点とした最後のサファリで、もう一度ゴリラに遭遇します。「ゴリラは私たちをやや行きすぎさせておいて右後ろ10mのところから、ものすごいヴァワーヴァ―ヴァ―という第1声を浴びせてきました」「目の前わずか7mのところからこれまででもっとも激しい叫びとともに、猛然と攻撃を仕掛けてきたものすごい黒いかたまりを見た時、これはやられるかもしれないと思いました」「ゴリラは、もう一度左にまわって第4回目の攻撃をやってのけ、私たちの行く手のしげみのすきまからほんの一瞬全身をあらわして、そのまま左手の森林の中に、音もなく消えていきました」
伊谷コレクションに残された「Cameroon 1958」の写真からいくつか。説明がないので、推測ですが、左上の2枚はゴリラのベッドの跡かと思われます。その外はキャロル氏と彼に飼育され、欧米の動物園等に高価で売り渡されていたというゴリラやチンパンジーたちと思われます。
ところで、「アフリカの動物たち」の2回目の記事に、メルー山のふもとで農園と動物ハンターを営むウィリー・ド・ベア氏に会った際、「タンガニイカ湖の東に、チンパンジーが住んでいる。しかも、ここのチンパンジーはサバンナにも住んでいる」と聞き込んだことを書いています。この記憶が、上記の1960年のリーキー博士との会話で、「帰りにタンガニイカに入ろうと思っています」という伊谷先生の何気ない一言に、「タンガニイカのどこだね。何を調べに行くんだね」と急に真剣になったリーキー博士とのやり取りの末、博士から“ゴンベ・ストリーム”の名前を聞き出し、その結果、現地でジェーン・グドールに出会うことになる、その伏線となるわけで、日本のチンパンジー研究のそもそもの原点というべきかもしれません(詳細は次号)。
さて、その後のヨーロッパ、アメリカと続く旅は、今西・伊谷両氏(というより日本の霊長類学全体)にとって初めての欧米との交流で、大きな成果がありました。パリでは、ブーリエール(動物学)と原猿類を調査していたビテ、チューリッヒでシュルツ(形態学)とヘディガー(行動学)、ケンブリッジでチャンス(心理学)等にお会いします。米国では、戦前に霊長類の野外研究を主導したカーペンター、ボノボを新種として同定したクーリッジ、ヒヒの研究を主導するウォッシュバーンとドヴォー、人類学ではハウエル、サーリンズ、クラックホーン、心理学はハーロウとメイスン、メンゼルなど、いずれもその後の人類学や霊長類学をリードされた方々を歴訪します。
左上の写真は「1958年5月、チューリッヒ大学人類学研究所とA・シュルツ教授(形態学)を訪ねる」。右上は「ペンシルヴェニア州立大学にCR・カーペンター教授(戦前からテナガザルやホエザル、アカゲザル等でフィールド調査や餌付けで観察をおこなった先駆者)をたずねる。教授はモンキーセンターが刊行したはかりの“Primates”Vol.1 No.1を手にしている」。左下は「ハーヴァード大学のピーボディー・ミュージアム前、右は今西先生、中央はC・クラックホーン教授(文化人類学)」。右下は「シカゴ大学では、LS・ウォッシュバーン教授(野生ヒヒの調査を主導する人類学者)が私たちを待っていて下さった」。なんという錚々たるメンバーだったのか、と改めて感じます。
二人はまた、アフリカで未知の動植物はもとより、様々な民族に出会います。なかには40年後に再会した方もいますが(下写真)、そうした経験が、伊谷先生のアフリカで自然に密着して暮らす人々への関心を高めていったと思われます。
40年ぶりの邂逅:左上の写真は、「(1958年に)カメルーンで出会った若かりし頃のアフリカ人、ガブリエル。彼は、“アイ・ハブ・トゥー・ピグミーズ”と言っていた。(写真の右側の女性は)その二人のピグミーのうちの妻とその子で、夫は森に出かけていた。森の中のピグミー(バカ)とガブリエルの仲介の役を果たしていたのが、このピグミーだったのである。このジカポステンでは、伊谷はローランドゴリラのオス1頭に出あい激しい咆哮を浴びている」。そして、右上は1997年、「神戸学院大学の寺嶋秀明氏の隊に参加してちょうど40年ぶりでカメルーンの森を訪ねた。アボンバンからさらに1日南下し、かつてローランドゴリラの予察をおこなったバジュエ族の村ジカポステンを通った際、この写真のガブリエルに会った。彼は40年前、私たちの調査のアレンジをしてくれた人物だったが、森に住むバカ・ピグミーにゴリラを捕らせ、それをヤウンデに送っていたフィリップ・キャロルの手先でもあった。村人の中で、彼が唯一、40年前の今西先生と私のこの村への来訪を記憶していた。当時彼は病床にあり、立ち上がるのが精一杯だったが、私の手を握り遠い昔をなつかしがった」
ところで、先生は何時からアフリカを意識し始めたか?
水原洋城氏の貴重な証言が残っています。「1954年の正月頃、高崎山のお寺に泊まって伊谷さんにいろいろ教えてもらった時に、伊谷さんが“自分はそのうち人類学を始めてホッテントットを研究するんだ”と(笑)。ホッテントットと一緒に住んで、そん中から嫁さんもろうて・・・(笑)そうせんとできへんのやと聞かされて、びっくりさせられたことがあったんですけども」(今西他『今西錦司の世界』1980)
しかし、現実の世界ではやはりアフリカはまだ遠い存在でした(よもや、高崎山での会話から4年後にアフリカの土を踏むとは、想像してもいなかったでしょう)。伊谷コレクションのうち、“J.E.P.”(頭文字の由来は不明)と題されたノートには1955年11月4日(金)に大阪市立大学で開催された会議の記録が残っています。内容から、どうやら1957〜58年に展開された大阪市立大学東南アジア学術調査隊に向けた打ち合わせのような雰囲気で、出席者は名字しか記載されていませんが、伊谷、川村、河合、徳田らお馴染みとともに、梅棹(忠夫)、川喜田(二郎)、吉良(竜夫)、小川(房人?)、吉川(公雄?)、河端(政一?)等のお名前が並んでいます。
このうち、霊長類関係者の発言を赤い点線で囲みますが、
- 伊谷「Gibbon(テナガザル)のsocioecology」
- 川村「両方やりたい。trance section(?)の中に入って、Gibbonをやってゆきたい」
- 徳田「Gibbonをやりたいが、その外に人間をやりたい。北の方をゆきたいと思う。trance sectionもやりたい」
- 河合「人頭が少ない時は、川村案に賛成。2〜3人で、gibbonをintensiveでやることが重要である」
等、この時は、出席者らは(東南アジアを目的地とする調査のため)テナガザルに関心が集中しているという印象を受けます。
なお、この後の展開は以下の通りですが、それぞれの研究者人生がわかれていくのがうかがえます。ここでもそれぞれの縁の不思議さを感じさせます。
- 1957年:川村は、大市大の東南アジア学術調査に参加(隊長は梅棹忠夫)、以後、東南アジア中心に、初志を貫徹された一生となります。
- 1958年:伊谷・今西はJMC第1次アフリカ類人猿調査隊、以後、アフリカ中心に
- 1959年:河合・水原はJMC第2次アフリカ類人猿調査隊、その後類人猿研究から離れる
- 1962年:徳田・和田(一雄)は南米に広鼻猿類について予備調査、徳田はその後、1970年代に伊沢と南米で調査
(以下、次号)
写真出典
Attribution: Smithsonian Institution from United StatesScience Service, No restrictions, via Wikimedia Commons
Attribution:
Daderot, CC0, via Wikimedia Commons
編集・執筆:高畑由起夫
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