第9回 「ゴリラとピグミーの森(1):日本モンキーセンター第3次アフリカ類人猿調査隊」

 1958年の第1次アフリカ類人猿調査隊は予察の印象が強いものでしたが、翌年の第2次調査隊は河合雅雄・水原洋城隊員によって本格的調査が展開、ルワンダ・コンゴ・ウガンダにまたがるヴィルンガ山地で29日間の直接観察ができました(Kawai & Mizuhara 1959;河合「ゴリラ探検とその将来」『モンキー』25:3-4)。

 それを受けて、1960年の第3次調査隊は伊谷先生の単独行として計画されました。しかし、直前にコンゴ動乱が勃発するという思わぬ事態に計画変更を余儀なくされます。コンゴには滞在できず、やむなくウガンダのカヨンザの森でゴリラを観察するものの、険しい地形等で調査は難航(40日で出会いは2日にとどまります)、後半を次年度以降のチンパンジー調査への予察に切り替えます。その結果、9000kmを赤いオースチンで走破しますが、この旅はその後の40年に及ぶ研究者人生を決定づけます。

旅程:7月5日のコンゴ動乱で予定変更、第8回で触れたようにナイロビでLSB・リーキー博士に相談、チンパンジー等の情報を取得、カヨンザで約40日滞在、以降はチンパンジー予察に切り替え、ブドンゴ視察、北上して牧畜民カラモジョンに接触します(前半)。その後、一路南下、ゴンベにグドールを訪ね、来年度以降のチンパンジー調査を決意、タンザニア中央部を走破してダルエスサラーム・アルーシャ経由でナイロビに帰還(後半;『ゴリラとピグミーの森』[伊谷、1961]掲載の図を一部改訂、主な地名・日程を加え、前半の行程を赤い線で、後半の行程を青い線で示しました)。

 ご自身は旅の「ポイントは3つに絞られる」とします。(『サル・ヒト・アフリカ』61-62頁)

「第1は、カヨンザの森の奥イヒゾーの谷のせせらぎを聞きながら、ついに対斜面に見たマウンテンゴリラの集団。私の耳の底には、しわぶき(せきばらい)にも似たスクマ・チーフの唸りと、谷を貫くような咆哮がいまも残っている。

 第2はトゥワ(ピグミー)、森の小人たちの、あくまでも純粋で、限りなく平穏で、しかも彼らが背負った宿命から脱しようとするかのように声のかぎり歌い、槍を手に森を駆け抜ける人びとの世界だった。

 第3は、竜巻で荒れ狂うタンガニイカ湖を渡って、夕方のゴンベの浜で出会ったジェーン、小麦色に陽やけし、若く本当に美しかったジェーン・グドールとの短い出あいと、そのあとゴリラからチンパンジーへと研究の対象を転換しようという決意だった」

 まず、ナイロビで先途に迷っていた7月21日、前年のジンジャントロプス発見以降、多忙をきわめていたリーキー博士にようやく会えた際の会話の断片が、ノートに残っていました。『ゴリラとピグミーの森』では、第8回で触れたように「タンガニイカにもチンパンジーがいる」との2年前のド・ベアさんの会話の記憶から、「帰りにタンガニイカに入ろうと思っています」と口をついてでた言葉から始まるやり取りの末、博士が「よし、場所を教えてあげよう。タンガニイカ湖畔の“ゴンベ・ストリーム”だ」と聞きだす経緯が詳述されていますが、残念ながらノートには以下の1ページ分とあと2行だけが記載されているだけで、前後の数ページは白紙が続きます。やりとりの急転に、すべてを記載する余裕がなかったのかもしれません。

残された記述はこの頁のほか2行ほど、前後に白紙のページが続きます。

  • ①「Gombe forestには誰もゆくことができない。コリンドン博物館より一人(=グドール)送っている。Game warden(猟区管理人)はたった一人しか認めない。君も私も入ることができない」(リーキー)
  • ②「このschedule(計画)は4年前から始めており、いま、いよいよintensive surveyにかかりかけている」(リーキー)
  • ③「この人の名前。Mr. Boothではないか」(伊谷先生からの質問と思われます;博士はこの時、名前を明かさなかったようですが、もちろん、ジェーン・グドールです)。
  • ④「ChimpanzeeはRhodesiaにもいる。Tanganyikaの東にもいる。これは誰にも言うな」(リーキー;こちらは伊谷先生が後日、現地まででかけて、誤情報であると確かめました)

 このリーキー博士との会話が、やがて伊谷先生のチンパンジー研究への転進につながることを、あるいは博士もかすかに予期していたかもしれません(少なくとも、ゴンベにいるグドールに「伊谷がゴリラを研究しに来た」と手紙で知らせています)。

 その後、飛行機でウガンダのカンパラに飛び、赤いオースチン(下の写真参照)を購入、運転手ダマスコ・ブケニヤを雇い、1958年に今西とともに訪れ、かつ59年には河合・水原も予察していたカヨンザの森を目指します。

伊谷コレクションから、ブケニヤとともに乗り回した車が写った写真。左上隅は『ゴリラとピグミーの森』48頁と同じ写真。その右の写真に並ぶ4人のうち、右端の小柄な日本人らしい方が、この車の斡旋も含めて様々にお世話になった、当時カンパラ在住22年の桑島武夫さんかもしれません(小柄で、バナ・ドコ[小さい旦那;スワヒリ語]と呼ばれていたのこと)。当時、カンパラでレンガ工場を経営されていました。他の写真は各地でオースチンを写したもの(右端上は、ボンネットを開けており、故障か?)。

 さて、混乱しているコンゴを少しでものぞいてみようと寄った国境付近のキソロでは、(第8回でも触れた)バウムガルテル氏経営のトラベラーズ・ロッジで、コンゴでの調査を終えて動乱を逃れてきた旧知のG・シャラーと再会します。その時の会話はノートで10頁を超えますが、以下はその一部です。

:George Beals Schaller(1933〜)、ドイツ生まれのアメリカの哺乳類学者・自然保護活動家。1959年からマウンテンゴリラを現地調査し、“The mountain gorilla: ecology and behavior”(1963)と“The year of the gorilla”(1964;邦訳『ゴリラの季節』)を出版。なお、伊谷先生とは1958年にウィスコンシン大学で会っていました。

左の頁で赤い点線で囲んだ箇所:「(シャラー)はものすごく沢山のfood plantsを確認している。(c)troopによるfoodsの違いをCultureとは思わない。どこも同じだ。(d)人からのinformationは信用できぬ。あまりinformationを引用してあると、まずいのではないか」。右の頁で赤い点線で囲んだ箇所:「(シャラーの仕事は)とにかくexcellent workだ。しかし、惜しいかな、sociologicalではない。Ecologicalで、sociologicalではない。惜しいことだ。Gorillaは、activityが低い。しかし、それでいいのだろう。それでいいのだ」。この後の展開を見れば、最後の文章は意味深長に聞こえる方もおられるかもしれません。

 伊谷は8月2日、シャラーが「あれは恐るべき森だ」と形容したカヨンザの森に入り、カンパラのマケレレ大学管理のコリアス・キャンプで調査を進めることになります。

左は「コリアス・キャンプ前での記念撮影。左より農耕民チガのボーイのエフライムとエリック、伊谷、狩猟民トゥワのルリサ・カゲシャとギショー・ギショゲ、そしてバクワテ少年。トゥワの身長は150cmに満たない」(カヨンザ滞在の後半と思われます)。右は「カヨンザの森の地図」(『ゴリラとピグミーの森』115頁)に一部情報を追加。

 カヨンザ滞在2日目、1960年8月4日、二人のバトゥワ・ピグミー、ルラマガとルワテラをともない、ゴリラを探した結果、10時30分、一行は首尾よくゴリラの群れを発見します。 「デレマ(蔓性の草本:葉がゴリラの食物)のやぶが数ヵ所でゆれ動いていた。そして、揺れ動いているやぶの中から、1本の真っ黒な手が伸びて、デレマの蔓を強くひきずりおろし、それと同時に、真っ黒なメスのゴリラの上半身が、やぶの中からあらわれた。つづいてその右にも、メスらしい黒い背中が見えた」(『ゴリラとピグミーの森』120頁)

谷の向かい側でゴリラを発見:望遠レンズではないので、きわめて小さいですが、大きな赤い円内にシルバー・バック(スクマ・チーフ;シルバー・バックとは、オトナオスの背の体毛が鞍状に白くなっていることを指します)が写っています。また、小さな赤い円内にはメスが写っているようにも見えますが、はっきりしません。

 なお、この伊谷コレクションに残された画像は、『ゴリラとピグミーの森』121頁の写真と左右逆で、どちらかが裏焼きの可能性があります。本文中の「(オスの)ゴリラは右下のやぶから出てきた」という記述、および下のノートのスケッチから考えると、こちらの方が正しいのかもしれません。以下に、時間軸に沿って8頁分の記述を並べましたが、経過とともに詳細になってくるのがわかります(右肩にページ数)。

当日のノートで赤い点線で囲んだ箇所:(左上)「10:45 a.m. White backのbig male*(判読不明)斜面を少し登る」(右上)「11:02 下よりものすごいAd♂出てくる。右手にsit。(左下)(14:30頃)「悠に♀の2倍はあろう。J*の顔の3倍はある。ものすごいやつだ。Hermet**はやっぱり高い。一つの特徴はforeheadが少し色が薄いこと、そして右の鼻腔の*****が、明らかに少し外上方に向けて裂けていることだ」(右下)「3:20p.m. 四つん這いになる。右手(川下)の方を向いている。眉間から頭の後ろまでの長さが実にlong。3.23p.m.一声啼いてまた座り直す。hipの毛はやや薄くて、brownがかっている。もとと同じposture」
*:テンと名付けたメスの若い息子で6歳くらいと推定され、テンジンと命名。
**:オスゴリラの高い矢状隆起をあらわすヘルメット(Helmet)のスペルミス?
***:判読困難

 伊谷先生はこのオスを「スクマ・チーフ」と名付け、6時間の観察後、再会を期してコリアス・キャンプに戻るのですが、その結果は「こうして、私はスクマ・チーフに完全に負けたのだった。翌朝、イヒゾーの対岸にはゴリラの姿はなかった」。彼らを探して数週間の苦闘の末、新たに現れたバトゥワの猟師ギショー・ギジョゲとルリサの助けでやっと2回目の観察を果たしますが、フィールドとしての悪条件を鑑み、カヨンザからの撤退とチンパンジー研究への予察を決断します。

 さて、8月5日にスクマ・チーフを見失ってから、彼らが8月3日の夜に利用したベッドを確認します。左下の図はノートのスケッチ、右下は『ゴリラとピグミーの森』掲載の図です。4日に観察した個体は7頭でしたが、巣は11個。この結果から、シルバー・バックのオス1頭(スクマ・チーフ)、ブラック・バックのオス1頭、オトナのメス5頭、性別不明の若者1頭、6歳くらいのオス1頭、コドモ2頭の計11頭と推定されました。

ノートに残されたスケッチと、『ゴリラとピグミーの森』143頁に掲載の図

(以下、次号)

余談:河合雅雄先生の『ゴリラ探検記』には、第1次調査から帰ってきたばかりの伊谷先生を囲んで、三条寺町の鰻屋で交わした会話が載っていますが、当時の雰囲気を髣髴とさせます。

 「ゴリラちゅうのはどんな奴や、怖いか」と川村(俊蔵)さんが聞いた。伊谷さんは少し酔いのまわった顔を紅潮させながら、「ごついぜ。そいつが近くから、いきなりものすごい声で咆えよるねや。魂をゆるがすような声をあびせられたら、体が宙返りしたかと思うぜ。ほんまに怖い。ほんまに怖いぜ。真っ黒なモンスターやな」川村さんはフフンと鼻をならし、「そら怖いやろな。せやけどおもろいやろな」と独言を言うようにつぶやいて、にたにたと笑った」

 そして、ゴリラとチンパンジーとでどちらに調査の重点をおくべきかの議論では、「重要性という点からはこの二者は甲乙がつけがたいが、未知の度合いから言っても、モンスター的性格からいっても、ゴリラの方が魅力的であった。それに、樹上生活が主であるチンパンジーよりも、地上生活者であるゴリラの方がずっと調査が容易であろう」「進化論上の見地からも、地上生活者であるゴリラの方をチンパンジーよりも先に研究すべきではなかろうか、というのが私たちの結論であった」

編集・執筆:高畑由起夫


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